築造の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 22:16 UTC 版)
仙洞御所(大宮御所ふくむ)の地は、かつて聚楽第の後身として太閤秀吉が築いた豊臣家の本邸「京都新城」のあった地であり、当時は太閤御所・太閤上京御屋敷などと呼ばれていた。豊臣秀吉が没した翌慶長4年9月に大坂城から秀吉の正室の北政所が移り居住した。彼女は寛永元年に没する。しばらくは甥の木下利房(次男の利次が北政所の養子として羽柴家を継承)が居住したが、寛永4年に後水尾天皇が譲位の意向を示すと、幕府はこの地を仙洞御所と大宮御所の地として選び御所建設工事に着手した。 このとき御所の規模構造について大坂城代から「皇居より大きくしないこと」などと細かな指示書が示されている。譲位の意向は中宮の東福門院所生の親王が夭折し、いったん撤回され、工事の進捗は緩慢になったと考えられる。寛永6年11月天皇が突如譲位を決行すると、工事を再開、翌7年12月に上皇は新構の仙洞御所に移徙(わたまし)している。このとき多くの建物は二条城から寛永行幸の際に使用した建物を移築再利用している。阿古瀬淵は豊臣家邸宅庭園の遺構と伝える。 1840年(天保11年)の光格上皇の崩御後は、退位し上皇となる天皇がいなかった事から、1869年(明治2年)の東京奠都に伴う東京への皇室や御所の移転を経た後も従来より単に「仙洞御所」と称されていた。 2019年(平成31年)4月30日、第125代天皇明仁が東京奠都後の天皇としては初めて退位し、上皇となった。その上皇の御所として「仙洞御所」が東京(東京都内)にも整備されることから、区別の為に従来の仙洞御所は「京都仙洞御所」と改称された。
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