第2バチカン公会議と中米とは? わかりやすく解説

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第2バチカン公会議と中米

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 18:02 UTC 版)

ペドロ・アルペ」の記事における「第2バチカン公会議と中米」の解説

第2バチカン公会議教令実施について、各地司教会議議論となったヨーロッパで専門主義科学的物資主義的無神論脅威アジアでは宗教間の対話ラテン・アメリカでは貧富の格差社会正義重要課題とされた。ラテン・アメリカではマルクス主義者連帯示し革命闘争身を投じる者も現れた。中南米司祭教会受入れ維持しようとさえしている不平等がこの問題最前線であると気付き貧困問題解決尽力した。彼らの実践解放の神学呼ばれたイエズス会士としては、ヨン・ソブリノオスカル・ロメロエルサルバドル殉教者などがいる。 これに対し1980年代教理長官であったヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿(後のベネディクト16世)から「解放の神学において来るべき王国現在の世界における平等についての根本的な混乱がある」とする見解示された。この見解2008年回勅希望による救い』("Spe salvi") において再度表明された。 中米では、イエズス会士実践積んだエルサルバドルでは1977年3月12日にはルティリオ・グランデが殺されアメリカ合衆国支援受けた白人戦士連合 (Unión de Guerreros Blancos) などの死の部隊により、6月20日には47人のイエズス会士が死の脅迫を受け、同国から逃れる者もあった。アルペは彼らと相談した上で「彼らは殉教者となろうとも、私の司祭たちはこの国を離れないだろう。人々と共にあるからだ」と語った1980年3月にはロメロ司教が、1989年11月16日にはエルサルバドルのホセ・シメオン・カニャス中米大学で6人の会士らが殺害され殉教した

※この「第2バチカン公会議と中米」の解説は、「ペドロ・アルペ」の解説の一部です。
「第2バチカン公会議と中米」を含む「ペドロ・アルペ」の記事については、「ペドロ・アルペ」の概要を参照ください。

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