第2バチカン公会議と中米
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「ペドロ・アルペ」の記事における「第2バチカン公会議と中米」の解説
第2バチカン公会議の教令の実施について、各地の司教会議で議論となった。ヨーロッパでは専門主義と科学的・物資主義的無神論の脅威、アジアでは宗教間の対話、ラテン・アメリカでは貧富の格差と社会正義が重要課題とされた。ラテン・アメリカではマルクス主義者に連帯を示し、革命闘争に身を投じる者も現れた。中南米の司祭は教会が受入れ、維持しようとさえしている不平等がこの問題の最前線であると気付き、貧困問題の解決に尽力した。彼らの実践は解放の神学と呼ばれた。イエズス会士としては、ヨン・ソブリノやオスカル・ロメロ、エルサルバドルの殉教者などがいる。 これに対し、1980年代に教理省長官であったヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿(後のベネディクト16世)から「解放の神学において来るべき王国と現在の世界における平等についての根本的な混乱がある」とする見解が示された。この見解は2008年の回勅『希望による救い』("Spe salvi") において再度表明された。 中米では、イエズス会士も実践を積んだ。エルサルバドルでは1977年3月12日にはルティリオ・グランデが殺され、アメリカ合衆国の支援を受けた白人戦士連合 (Unión de Guerreros Blancos) などの死の部隊により、6月20日には47人のイエズス会士が死の脅迫を受け、同国から逃れる者もあった。アルペは彼らと相談した上で「彼らは殉教者となろうとも、私の司祭たちはこの国を離れないだろう。人々と共にあるからだ」と語った。1980年3月にはロメロ司教が、1989年11月16日にはエルサルバドルのホセ・シメオン・カニャス中米大学で6人の会士らが殺害されて殉教した。
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