第12編の内容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 08:32 UTC 版)
「支那思想及人物講話」の記事における「第12編の内容」の解説
神明は則ち日の升るが如く 身体は則ち鼎の鎮するが如し。曽国藩は日本の時代で言えば11代将軍家斉の享和年間から明治の始(5年)まで、即ち清朝末期に現れた古今の偉人である。大抵は曽国藩といえば長髪賊の平定に大功有った武人ぐらいにしか知られて居ないが、彼は生粋の武人ではなくて、本来は文官、それも敬虔な学者であった。彼は何よりも先ず至醇の情緒――至誠の人格を具えていた。東洋には清濁併せ呑むといったような包容の大きな人物が少なくないことはその一つの特徴のようにも思われる。ただそれらの人物は大抵先天的にかかる資質を与えられて、修為工夫の力に待つことが割合薄く、言わば自然法爾の相に出づるものが多いのに反して、曽国藩は徹頭徹尾工夫の人であった。その人物の根幹を養ったのは朱子学であった。生涯の工夫を約言すれば一「敬」字に帰した。彼の心境を説いて、「清明躬に在り、日の升るが如く」でなければならぬとした。1842年(道光22年)11月、日記に「誠」を解釈して、「人間は中が虚しければ、決して一物に著するものでなく、よく真実無妄である。」といって居る。死ぬ前年1871年(同治10年)61歳の年、金陵に於ける日記の中に「独を慎めば則ち心安し。」「敬を主とすれば則ち身強し。」と記して居る。こういうことは実際問題として固より容易なことではない。我々が暮らしてゆく一日一日を実際により好くして行くことの他に道徳も宗教も無いのである。彼は独り自己ばかりでなく、人と交わるにも深く道徳的に相誘掖した。国家に対しても彼は一大改革論者であったが、滅亡を荷える清朝はもはや彼の改革論を容れる生命を有たなかった。しかし彼の兄弟友人はどれだけ彼のために済われたか知れない。
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