第四次戦役(234年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 02:32 UTC 版)
「合肥の戦い」の記事における「第四次戦役(234年)」の解説
234年に、孫権は蜀の諸葛亮の北伐に呼応し、10万の軍勢で自ら親征して巣湖の入り口から合肥新城へと進撃。同時に陸遜・諸葛瑾らには1万人余りの軍勢で沔水(漢水)から襄陽へと向かわせ、孫韶・張承には淮水から広陵・淮陰へと向かわせ、魏領内への多方面同時侵攻に打って出た。 6月、合肥新城は孫権軍に包囲され、滿寵はいったん合肥新城を放棄して北方の寿春にまで孫権軍を引き込み、そこで改めて敵を迎え撃ちたいと曹叡に打診して許可を求めた。曹叡は「魏呉蜀の三国にとって合肥・襄陽・祁山の3城は兵法で言う所の『兵家必争の地』たる最重要防衛拠点で、魏ではこれまでここを死守することによって呉蜀からの侵攻を撃退することができた。たとえ孫権が合肥新城を攻撃しても決して攻め落とすことはできない、だから諸将に於いてはこれらの城を堅く守り抜くこと。もし私自らが親征して赴けば、敵は恐れを抱いて逃げ出すであろう」と言い滿寵の訴えを却下した。満寵は合肥新城へ救援に赴くと、数十人の義勇兵を募り松と麻の油を用いて風上より火をかけ呉軍の攻城兵器を焼き払い、孫権の甥の孫泰を射殺した。 7月、曹叡は御龍舟に乗って東征を開始。孫権軍は幾度も合肥新城を攻撃するも、魏の張穎らが力戦し合肥新城を死守したため、突破口を見出せないでいた。孫権は曹叡の親征を知ると、曹叡の軍が未だ数百里に至る前に撤退。陸遜・諸葛瑾・孫韶らもまた同様に軍を引き上げ、遠征は呉軍の全面敗北という結果に終わった。蜀の諸葛亮も戦果のないまま陣没し、遺された将兵は撤退した(五丈原の戦い)。
※この「第四次戦役(234年)」の解説は、「合肥の戦い」の解説の一部です。
「第四次戦役(234年)」を含む「合肥の戦い」の記事については、「合肥の戦い」の概要を参照ください。
- 第四次戦役のページへのリンク