第一の探検とは? わかりやすく解説

第一の探検(1649年-1650年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/01 05:05 UTC 版)

エロフェイ・ハバロフ」の記事における「第一の探検(1649年-1650年)」の解説

1648年、ゴロヴィンに代わりドミトリー・フランツベコフがヤクーツク赴任するハバロフ新たな総督対しヤクーツク南方ダウリヤザバイカルおよび沿アムール地方西部旧称)はレナ川流域よりも農業適した地であるとしてダウリヤへの探検を行うことを請願し認められた。こうしてハバロフは、ヴァシーリー・ポヤルコフによる1643年から1646年ロシア人最初アムール川探検次ぎ2回目となるアムール川探検率いることになり、1649年春に自費隊員武装まかなってヤクーツク発った以前にポヤルコフが辿った往路レナ川中流域支流アルダン川南へ遡るのだったが、何度も船をかついで山を越え困難な道のりであり、とても実用的な経路ではなかった。ハバロフは、レナ川上流支流ヴィチム川南へ遡ることにより、より容易にアムール川流域にたどり着けるのではないか考えていた。1647年にはヤクーツク猟師が、ヴィチム川の東を並行するオリョークマ川遡るアムール川上流にたどり着くはずだという報告行っており、ハバロフはこれに基づいてオリョークマ川遡る経路をとることにした。ハバロフ一行レナ川からオリョークマ川入り支流のトゥングル川を遡り、その上流で船をかついで丘を越えアムール川上流シルカ川達することに成功した。翌1650年初めにダウリヤ入ったが、すでにコサックらがレナ川流域暴れまわっているという噂がこの地にも届いており、住民らは逃げ出していた。 良い土地と良い経路発見したという成果得てハバロフ1650年5月ヤクーツク戻った。彼は報告の中でダウリヤ褒め称えたが、中国(清)による干渉の危険があることを警告し次の探検職業軍人大規模に行うべきであることを提案した

※この「第一の探検(1649年-1650年)」の解説は、「エロフェイ・ハバロフ」の解説の一部です。
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