第一の探検(1649年-1650年)
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「エロフェイ・ハバロフ」の記事における「第一の探検(1649年-1650年)」の解説
1648年、ゴロヴィンに代わりドミトリー・フランツベコフがヤクーツクへ赴任する。ハバロフは新たな総督に対し、ヤクーツクの南方のダウリヤ(ザバイカルおよび沿アムール地方西部の旧称)はレナ川流域よりも農業に適した地であるとしてダウリヤへの探検を行うことを請願し認められた。こうしてハバロフは、ヴァシーリー・ポヤルコフによる1643年から1646年のロシア人最初のアムール川探検に次ぎ、2回目となるアムール川探検を率いることになり、1649年春に自費で隊員や武装をまかなってヤクーツクを発った。 以前にポヤルコフが辿った往路はレナ川中流域の支流アルダン川を南へ遡るものだったが、何度も船をかついで山を越える困難な道のりであり、とても実用的な経路ではなかった。ハバロフは、レナ川上流の支流ヴィチム川を南へ遡ることにより、より容易にアムール川流域にたどり着けるのではないかと考えていた。1647年にはヤクーツクの猟師が、ヴィチム川の東を並行するオリョークマ川を遡るとアムール川上流にたどり着くはずだという報告を行っており、ハバロフはこれに基づいてオリョークマ川を遡る経路をとることにした。ハバロフ一行はレナ川からオリョークマ川に入り、支流のトゥングル川を遡り、その上流で船をかついで丘を越え、アムール川上流のシルカ川に達することに成功した。翌1650年の初めにはダウリヤに入ったが、すでにコサックらがレナ川流域で暴れまわっているという噂がこの地にも届いており、住民らは逃げ出していた。 良い土地と良い経路を発見したという成果を得て、ハバロフは1650年5月にヤクーツクに戻った。彼は報告の中でダウリヤを褒め称えたが、中国(清)による干渉の危険があることを警告し、次の探検は職業軍人が大規模に行うべきであることを提案した。
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