福建省の樟脳専売
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/24 03:18 UTC 版)
樟脳と台湾の関係は、台湾島内にとどまらず、台湾の対岸地域とりわけ福建省の樟脳にも影響を及ぼした。 1901年(明治34年)、台湾名望家の林朝棟が清国の福建省当局から樟脳専売権を獲得しようとした。しかし林は、資金を集めることに困難を来たしたので、総督府に資金援助を求めた。当時の台湾総督児玉源太郎は、これを「天与の恵み」と考えた。福建省の樟脳独占専売による利益が得られるのみならず、台湾の樟脳原木資源の温存ができ、またそれにより樟木生産地である「蛮地」との緊張を緩和することができるからである。のみならず台湾の対岸である福建省を始め中国大陸南部における新たなコロニーの確保による日本の勢力拡大が期待されたからである。そこで総督府は、「三五公司」という表面上は日本と中国の合弁会社の形態をとるが、実際は国家的色彩の強い機関を設立した。その責任者として愛久澤直哉をあてた。まず、愛久澤は林に設備の弁償金として2万円を支払い、林を福建省樟脳専売事業より切り離した上で、新設された「官脳局」の技師となった。「官脳局」すなわち実質的には三五公司の樟脳の移出・輸出量は1907年(明治40年)には、約2700斤に上り、1901年の設立時のそれの17倍となり、ピークを迎えた。しかし、総督府による福建省の樟脳の専売は西洋列強各国の反発を招いた。清国政府にとっても「官脳局」は自己に何ら利益をもたらさない厄介者であったため、「官脳局」撤廃の要求が高まることになった。そのため1910年(明治43年)には三五公司による樟脳専売は中止された。
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