神沢家
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神沢家の先祖については『翁草』巻45「肥前島原一揆の事」に記述がある。神沢家は古く村上源氏赤松氏と同族で、鎌倉時代末期には赤松則村に仕え、元弘の乱では六波羅探題襲撃に関わった。『太平記』には山崎の戦い賛成者として藤沢某が見える。赤松氏滅亡後は三木城主別所長治に仕えた。別所氏も滅亡すると、神沢善左衛門治は備前国宇喜多氏に仕えた後、その家臣で娘を嫁がせていた花房正成の許に移った。その子理右衛門八勝は黒田長政の下で放浪生活をした後、大坂で豊臣方毛利勝永に仕え、大坂夏の陣に参戦した。最後の天王寺・岡山の戦いでは早々負傷して落ち延び、花房正成の下に戻った。その子善太夫貞宜は島原の乱に参戦するため暇を乞うも許されず、偽書を以って幕府方松平忠之に参じた。2月21日夜討を撃退し、手傷を負った。乱の鎮圧後1500石の俸禄を与えられた。その子が与兵衛宜茂、その子が養父弥十郎貞宜である。 杜口は貞宜娘香との間に子を5人設けたが、末女民子のみ生き残り、またその娘は3人設けたが1人が残った。明治時代には京都七条通新町西入ルに子孫神沢貞約が住んでいたが、明治38年(1905年)1月21日死去した。
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