社会の不安定化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/10 04:16 UTC 版)
「近代レバノンの歴史」の記事における「社会の不安定化」の解説
マーン家、シハーブ家は、北レバノンに居住していたマロン教徒が山岳レバノンへ移住することを奨励した。この中から、経済的な成功者も現れたが、このことで、2つの経済的・社会的不安定がもたらされることとなった。 1つは、マロン教徒内部での社会的不安定をもたらしたことである。もう1つが、相対的に貧しい生活を送っていたドゥルーズの首長層・地主が土地を担保に、マロン教徒の富裕層あるいは金貸しから多額の借金を負うようになった。 1840年代初頭には、ロシアが東方正教会の信徒を、フランス・オーストリアがマロン教徒及びギリシャ・カトリックの両派、イギリスがドゥルーズを公然と擁護する構図が出来上がり、政治介入は、日常的なものとなった。帝国政府は、キリスト教徒地区の分裂を助け、また、その時々で、支持する相手を変えるといった具合であった。 1842年には山岳レバノンを二つに分割し、北部にマロン教徒の代官を、南部にドゥルーズの代官をおいて統治する行政改革が列強の支持のもとで行われたが、なおも社会不安は続いた。このような状況下で、1860年6月、デイル・エル・カマールの虐殺が起きた。1858年に始まったマロン教徒農民層による武装蜂起と彼らの行動を危惧したドゥルーズのキリスト教徒殺害の帰結の事件であるこの事件は、結果的に11000人のキリスト教徒が殺される惨事となったが、この事件により、欧州の世論は即時介入に踏み切ろうとしたが、オスマン帝国政府は、介入の口実を与えなかった。 しかし、ナポレオン3世が1848年に実権を握っていたフランスはこれ以後、レヴァントへの関心を高めていくこととなった。
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