白色テロによる殺害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/14 11:28 UTC 版)
「ウオグ・エ・ヤタウヨガナ」の記事における「白色テロによる殺害」の解説
台灣省保安司令部(中国語版)による「高山族の匪諜(共産党のスパイ)湯守仁らの叛乱事件」という罪状の要約によると、ウオグは1949年の夏に林良寿によって紹介され、陳顕富に会った。その後、陳顕富は省工作委員会山岳工作委員会の書記の簡吉(中国語版)、議員の林瑞昌、高澤照らを招集し、台北の川端町にある月華園で会合した。陳顕富は彼らに「高砂族自治会」を組織するように指示した。1950年に省工作委員会は解体され、ウオグは更生することを選択した。これがロシン・ワタンとの2回目の更生となった。彼は1年以上にわたって情報局の山地工作委員会の監視下にあった。そして、蔡孝乾(中国語版)は阿里山のウオグのところに匿われていたがウオグは更生したときにそれについて言及しなかったため、調査され、厳しい取り扱いを受けた。 1952年2月、台湾省保安司令部司令の呉国楨(1903-1984)は「慎重計画」の実行を命じた。9月10日、保安處の林秀楽少将は、「山地保安会議」を開催したという名のもとに、呉鳳郷長の高一生、警備官の湯守仁、楽野村長の武義徳らを竹崎駅で逮捕した。彼らは台北の景美にある軍事処(中国語版)に護送され審尋を受け、汚職の罪で起訴された。12月には更に、蔡孝乾や他の匪諜と反乱のため集会を行ったという罪状が追加された。1953年2月、二・二八事件における更生は取り消され、6月に死刑判決を受けた。1954年4月17日、湯守仁、高一生、林瑞昌、汪清山(中国語版)、方義仲、高澤照ら6人が台北憲兵隊に引き渡されて銃殺され、4月29日に事件の解決が国防部に報告された。
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