白色テロへの日本軍の幇助
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 06:12 UTC 版)
「シベリア出兵」の記事における「白色テロへの日本軍の幇助」の解説
ロシア語学者の八杉貞利(当時、東京外国語学校教授)は、1920年7月28日、アムール・ウスリー旅行を企てた。同旅行中の日記はシベリア戦争下の現地状況について記されており、その中には日本軍の白色テロに対する幇助の模様も含まれている。 「 日本下級軍人が、所謂殊勲の恩賞に預からんがために、而して他の実際討伐に従軍せる者を羨みて、敵無き所に事を起こし、無害の良民を惨殺する等の挙に出ること。而して「我部下は事無き故可哀相なり、何かやらせん」と豪語する中隊長あり 」 また、別の駅では以下の話を耳にする。 「 目下過激派の俘虜百名あり、漸次に解放したる残りにて、最も首謀と認めたるものは殺しつつあり、之を「ニコラエフスク行き」と唱えつつありといふ。 」 さらに、 「 各駅は日本兵によりて守備せらる。(中略)視察に来られる某少佐に対してシマコーフカ駅の一少尉が種々説明しつつありしところを傍聴すれば、目下も列車には常に過激派の密偵あり、列車着すれば第一に降り来たり注意する動作にて直ちに判明する故、常に捕らえて斬首その他の方法にて殺しつつあり、而して死骸は常に機関車内にて火葬す。半殺しにして無理に押し込みたることもあり。或時は両駅間を夜間機関車を幾回となく往復せしめて焼きたることあり。随分首切りたりなど、大得意に声高に物語るを聞く。而して報告は、単に抵抗せし故銃殺せりとする也という。浦塩にて聞きたることの偽ならぬをも確かめ得て、また言の出るところを知らず。 」
※この「白色テロへの日本軍の幇助」の解説は、「シベリア出兵」の解説の一部です。
「白色テロへの日本軍の幇助」を含む「シベリア出兵」の記事については、「シベリア出兵」の概要を参照ください。
- 白色テロへの日本軍の幇助のページへのリンク