疑惑の再捜査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/13 14:35 UTC 版)
「ヴィレム・ファン・マーレン」の記事における「疑惑の再捜査」の解説
ところがその後、『アンネの日記』が爆発的に世界に広がったため、密告者が誰なのか世界中から関心を寄せられた。また1963年にはサイモン・ヴィーゼンタールの調査によりジルバーバウアーが「アンネを逮捕した者」として突き止められた。これを機にアムステルダムの国家犯罪調査部は密告の容疑者の捜査に本格的に乗り出した。世界の目もあり、この時の捜査は1948年の時以上に厳しく徹底した物となった。 警察はまずJ.J.ド・コックという1943年中に2、3か月だけファン・マーレンの下で働いていた男の居場所を探し出し、事情聴取を行った。ド・コックは自分とファン・マーレンは結託して倉庫から盗みを働いていたと証言した。ただしド・コックは「ファン・マーレンに関する限り、国家社会主義に関心があるどころか、占領軍に取り入ろうとする形跡さえ見られませんでした」と証言している。隠れ家メンバーも再び事情聴取を受けたが、彼らから新たな情報は得られなかった。 ファン・マーレン自身は1964年11月に警察から事情聴取を受けた。その中で彼は倉庫から盗みを働いた事実は認めた。また食料を運びこんだり、倉庫に見慣れない足跡があることについてクーフレルを問いただした時、彼のはぐらかすような態度から疑念を抱いていたことも事実と認めた。クーフレルの証言にある青いペンキを剥ぎ取って云々という話は否認したが、主屋の後ろに家があることは雨漏りの修理で屋根に登った時に気付いたことを認めた。しかしそこにユダヤ人が匿われているのを知っていたことについては否認し、したがって密告したのは自分ではないと主張した。また事務所の鍵はミープから渡された物でジルバーバウアーから管理者に任じられたという話は否認した。また自分はレジスタンス組織のリーダーと友人関係にあったことを証言した。 レジスタンス組織のリーダーと親しかった件は当のレジスタンス組織のメンバーから証言が取れた。そのレジスタンスたちはファン・マーレンが金に意地汚い男だったことは認めたが、彼がアンネの事をドイツ軍に密告をするなど到底考えられないと証言した。一方、別の人間から彼がドイツ国防軍に購買代理人として雇われていたという証言も出てきた(ファン・マーレンはこれを否認している)。 いずれにしてもファン・マーレンの主張を突き崩すほどの具体的な証拠は見つからず、1964年11月4日に捜査は再び打ち切られた。ファン・マーレンはその後1971年にアムステルダムの自宅で死去した。76歳だった。
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