現役時代の実績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 04:38 UTC 版)
強打の外野手として期待されたものの、打撃面では入団初年の打率.331を頂点に成績は尻すぼみ。1994年、新監督に仰木が就任し、登録名を既にニックネームとして定着していた「パンチ」に、3年目の若手外野手の鈴木一朗も「イチロー」に変更した(このアイディアは打撃コーチの新井宏昌が提案し、仰木が承認した)。この際仰木らは、実際にはイチローひとりを売り出すために登録名変更を思い立ったものの、当時はまだ全国区ではなかったイチロー一人だけを改名した場合、イチローだけが目立ってかえって萎縮してしまうことを懸念していた。そこで仰木らは、既に全国区だったパンチにも改名を勧め「一緒に目立ってくれ」と頼み込み、こうして2人の登録名が変更されるに至った。 新たな登録名で心機一転したパンチは復活を目指し、手ごたえを感じつつあった1994年のシーズン終盤、仰木から直々に飲食に誘われ、期待の言葉をかけられると思っていたところ、直接引退勧告(戦力外通告)を受ける。「野球より芸能界の方が向いているのではないか」と見抜いており、仰木から戦力外を言い渡されると「どうしてですか? シーズン前には『期待している』って言ってくれたじゃないですか」と反論したが、仰木は「代打でなら使えるが、スタメンとして使うにはちょっと厳しいな。資産も多く持っているならいい、でも奥さんも子供もいる。お前はこのままプロ野球選手として食っていくよりも、芸能界でやっていった方がいいと思う」と諭した。「尊敬する仰木さん」にそこまで言われてしまっては仕方がないとあっさり納得し、「はい、分かりました。辞めます」と二つ返事で引退を決意した。 現役最終打席は1994年にグリーンスタジアム神戸で開催された対近鉄戦の代打出場だった。
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