現役引退後・45歳で病死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 08:39 UTC 版)
「北天佑勝彦」の記事における「現役引退後・45歳で病死」の解説
現役引退後は年寄「二十山」を襲名。一旦は三保ヶ関部屋付きの親方として後進の指導に当たったが、元々独立は認められており、1994年6月に内弟子6人を連れて二十山部屋を興した。その後はロシア出身の白露山を幕内力士に育てあげた。しかし、審判委員を務めていた2006年3月場所中に体の不調を訴えて緊急入院。当初病名は「多発性脳梗塞により入院加療2週間」と発表されたものの、精密検査の結果は同時に腎臓がんとその転移による悪性脳腫瘍を発病していた(入院時は癌・脳腫瘍の件は発表されなかった)。既にがんは末期であり、親しい知人には「1年もたないかもしれない」と死期を語り、遺言を作るなどして身辺を整理していたという。それから僅か3ヶ月後の2006年6月23日、腎臓がんのため東京大学医学部付属病院で死去。まだ45歳という若さであった。また、番付発表直前の死であったために、7月場所の番付には二十山勝彦の名が掲載されたままであった。亡くなる1年程前から、腎臓癌の症状である血尿が出ていたが、現役時代から稽古上がりによく血尿が出ていたために、「若い頃は毎日こうだったんだから心配無い」と病を疑わずにいたことが死後になり新聞等に掲載された。なお、二十山部屋所属の11人の弟子に継承者となるべき親方がいないため(師匠がいない力士は土俵に上がることができない)、病床で事後を託されたという兄弟子の北の湖部屋に移籍した。しかし、白露山は2008年9月に体内から大麻陽性反応が出るという不祥事を起こし解雇されている。
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