王冠連合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/22 03:21 UTC 版)
イングランドからテューダー家のヘンリー7世の娘マーガレットがジェームズ4世に嫁してジェームズ5世が生まれ、ステュアート家はイングランドの王位継承権を得た(ただし、ジェームズ4世の祖父ジェームズ2世はヘンリー7世の大おばジョーン・ボーフォートの子であり、すでにイングランド王家との血のつながりはあった)。 イングランドでエリザベス1世が即位すると、スコットランド女王メアリー(ジェームズ5世の長女)はエリザベスが庶出であるとしてイングランド王位を要求し、スコットランドとイングランドの関係は悪化した。嫡子のいなかったエリザベス1世の死後、メアリーの息子であるスコットランド王ジェームズ6世がジェームズ1世としてイングランド王位にも就き、アン女王の時代にグレートブリテン王国として統合されるまで、両国は共通の王と独自の政府・議会を持つ同君連合体制をとった。これをイギリス史では王冠連合 (Union of the Crowns) と呼ぶ。 ジェームズ1世とその子チャールズ1世は、王権神授説を唱えて国王の絶対性を説き、議会と対立した。清教徒革命(イングランド内戦)が起こるとチャールズ1世は処刑され、イングランドでは王制が廃止された。チャールズ2世が王政復古を果たすが、ジェームズ7世/2世は名誉革命でカトリック王として追放された。後、ジャコバイトがジェームズ7世/2世やその長男の家系による王位の奪還を目指したものの、彼らが正式に王としてイングランド、スコットランドに迎えられることはなかった。イングランドとスコットランドの王位はチャールズ1世の孫に当たるウィリアム3世、およびジェームズ7世/2世の2人の娘によって継承され、アン女王の死後はジェームズ1世の曾孫に当たるブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯(ハノーファー選帝侯)ゲオルク・ルートヴィヒがグレートブリテン王ジョージ1世として迎えられてハノーヴァー朝が成立した。 なお、ピューリタン革命期にイングランドでは王のいない空位時代があったが、スコットランドでは王太子のチャールズ2世がただちに即位して空位時代はなかったとされる。
※この「王冠連合」の解説は、「ステュアート朝」の解説の一部です。
「王冠連合」を含む「ステュアート朝」の記事については、「ステュアート朝」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から王冠連合を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。

- 王冠連合のページへのリンク