牌楼建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 02:09 UTC 版)
1954年(昭和29年)9月10日、牌楼建設工事が着手された。 当時の平沼亮三横浜市長と半井清(なからいきよし)横浜商工会議所会頭は、アメリカを視察し、横浜の戦後復興の一策として、横浜中華街を戦前の様な特徴ある街に再建し観光の呼び水とすることが必要だと提唱した。 この呼びかけに地元華僑が共鳴し、神奈川県と横浜市、横浜商工会議所などが協力して、牌楼建設の計画が持ち上がった。こうした動きの中心となったのが、当時の横浜華僑総会の会長薛来宏、留日広東会館会長龐柱琛、陳洞庭ら横浜華僑と横浜の日中両国人の親睦団体である日中協会常務委員の金子光和である。金子光和は戦前よりへ京浜日華協会を発足させるなど、日中友好に尽力した人物で、日中両国人の信望も厚く牌楼門建設委員会の会長に推挙された。金子は建設のために、寄付金集め、設計案の調整、中華街側と役所側との橋渡しと東奔西走の活躍をした。その甲斐あって地元華僑や日本人の有志八十余名の寄付金と、神奈川県と横浜市からの助成金をあわせ、133万円あまりの資金が集まった。工事は寿建設が請け負い、1954年8月17日に地鎮祭が行われ、9月10日に工事が着手された。そして翌年に鉄筋コンクリート建て、高さ13メートル、幅18メートルの極彩色の中国牌楼が完成した。門には、「春秋左氏傳」から引用した「親仁善隣」の言葉を刻んだ額が掲げられた。1954年、戦後復興への願いを込めて牌楼が建設され、その後東西南北の門が造られていった。そして初代牌楼から40年後、中華街では四つの牌楼(朝陽門、延平門、朱雀門、玄武門)の改築が進められた。その担い手は初代牌楼の建設に情熱を注いだ華僑の息子たちである。
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