火山灰の降灰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 22:56 UTC 版)
この噴火により江戸でも大量の火山灰が降った。当時江戸に居住していた儒者の新井白石は享保元年(1716年)頃に成立した随筆『折たく柴の記』に降灰の様子を記している。 「よべ地震ひ、この日の午時雷の声す、家を出るに及びて、雪のふり下るごとくなるをよく見るに、白灰の下れる也。西南の方を望むに、黒き雲起こりて、雷の光しきりにす。」 江戸でも前夜から有感地震があった。昼前から雷鳴が聞こえ、南西の空から黒い雲が広がって江戸の空を覆い、空から雪のような白い灰が降ってきた。 また大量の降灰のため江戸の町は昼間でも暗くなり、燭台の明かりをともさねばならなかった。別の資料では、最初の降灰はねずみ色をしていたが夕刻から降灰の色が黒く変わったと記されている(伊藤祐賢『伊藤志摩守日記』)。 2日後の25日(18日)にも『黒灰下る事やまずして』(折たく柴の記)と降灰の状況が記されている。ここで注目すべきは最初の火山灰は白灰であったが、夕方には黒灰に変わっていることで、噴火の最中に火山灰の成分が変化していた証拠である。この時江戸に降り積もった火山灰は当時の文書によれば2寸 - 4寸 (5 - 10cm) であるが、実際にはもう少し少なかったと推定されている。東京大学本郷キャンパスの発掘調査では薄い白い灰の上に、黒い火山灰が約2cm積もっていることが確認された。この降灰は強風のたびに細かい塵となって長く江戸市民を苦しめ、多数の住民が呼吸器疾患に悩まされた。当時の狂歌でも多くの人が咳き込んでいるさまが詠まれている。 これやこの 行も帰るも 風ひきて 知るも知らぬも おほかたは咳 (蝉丸の「これやこの行くも帰るも別れつつしるもしらぬもあふさかの関」をふまえた歌) また、宝永4年当時の甲斐国甲府藩主は柳沢吉保であったが、奈良県大和郡山市の大和郡山市教育委員会所蔵「豊田家史料」には宝永噴火の際に採取された火山灰が現存している。これは柳沢家家老・薮田重守により保管されたもので、享保9年に柳沢氏が大和郡山へ転封となり、現在まで伝わっている。火山灰は二枚の紙によって包まれた状態で現存しており、包紙の記載から宝永噴火の際のものであることが確認される。なお、宝永噴火が発生した宝永4年11月23日には吉保の子息である経隆・時睦が従五位下に叙任されている。
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