瀬長グスク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 17:23 UTC 版)
瀬長島は豊見城の発祥の地とされ、琉球開闢の女神アマミキヨが豊見城に降臨した際、瀬長島に最初に降り立ったとされる。瀬長島に瀬長グスクが形成され、『琉球国由来記』には瀬長按司の居住跡と記されている。瀬長グスク内では青磁と土器が出土し、また島南斜面には陶磁器や鉄滓も発見されている。『琉球国由来記』によると、グスク周辺にはいくつかの御嶽が存在していたとされ、干潮の際には干潟を徒歩で、満潮時には小舟を使用して渡った。1719年に、冊封のため尚敬王のもとを訪問した徐葆光は、蔡温に瀬長島を案内され、美しい砂浜と大勢の人が雨宿り出来るほどの巨石奇岩などの景観を讃えている。また、昭和11年には沖縄八景 の一つに数えられるなど、豊見城を代表する風光明媚な景勝地であった。 18世紀初頭の平敷屋朝敏は、当島を舞台の一つにした組踊「手水の縁」を手がけた。19世紀頃から近隣の我那覇村から移住者が出始め、1903年(明治36年)当時の島内人口は91人、戦前期には約40世帯の集落が形成され、半農半漁の生活を送った。島南東部に位置する「子宝岩」に、戦前まで子供を授かるために参拝したという。1923年(大正12年)に瀬長島を訪れた折口信夫は、一丈程の岩の頂上に2つの穴があり、そこを目掛けて参拝者が小石を投げ入れ、どちらかに石が入った穴で授かる子供の性別を占っていたと、述べている。
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