滝沢馬琴との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 02:38 UTC 版)
先に述べた通り、羅貫中が編纂したとされる二十回本『三遂平妖伝』に、馮夢竜が内容を付け加えた四十回本『三遂北宋平妖伝』が現代において通行本とされているが、日本に『平妖伝』が伝わったのは江戸時代である。特に滝沢馬琴の功績が大きい。 『平妖伝』という言葉が初めて使用されたのは天保三年七月一日付殿村篠斎にあてた馬琴書翰中である。滝沢馬琴は最初殿村篠斎のもとにあった四十回本の写本を借覧したいという旨であったが、既に売却済で叶わなかった。篠斎はこれに対し、大筋を書いた『平妖伝略解』を馬琴に送った。ここで初めて馬琴は『平妖伝』の大略を知ったと言えよう。次に十一月二十六日付の篠斎にあてた書翰によると馬琴自身が天保三年に大阪の書肆(本屋の意)河内屋茂兵衛から四十回本を買い取るも全八冊中二冊が欠けている不完全なものであった。十二月に送った小津桂窓宛の書翰には、原本である二十回本を読みたいという旨が綴られていることからも、馬琴の強い願望が伺える。 その後天保四年一月九日、遂に小津桂窓の協力を得て二十回本を入手したのである。以降十三日までに読了し、十四日には桂窓宛に略評を書き、天保四年三月には『遂平妖伝略評』をおくったという。これを借りた木村黙老は、自らしたためた『平妖伝評』を送るも、その内容は登場人物は皆悪人であるというもので馬琴の文学観とは大きく異なった。滝沢馬琴の文学観は、勧善懲悪的と言われている。『平妖伝』全文の比率から見ても、聖姑姑や永児、左黜などの妖人が主要人物と言えるだろうが、滝沢馬琴は勧善懲悪的思索を深め、王則の反乱という史実を題材としているならば主人公は王則となるべきと捉えた。
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