溝渕増巳とは? わかりやすく解説

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溝渕増巳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/19 15:51 UTC 版)

溝渕 増巳(みぞぶち ますみ、1900年明治33年〉11月28日 - 1984年昭和59年〉1月17日)は、日本の内務官僚政治家。公選第4代高知県知事、財団法人土佐育英協会初代理事長、板垣退助先生顕彰会名誉会長[1]

最終学歴は、小学校(旧制)卒業。満22歳で、大阪府警察部巡査となった。

巡査としての勤務の傍らの独学により、満28歳で高等試験行政科(戦後の国家公務員上級試験)に合格する偉業を成し遂げ、内務官僚(キャリア)となった。

公選第4代の高知県知事。在任期間は5期連続当選で1955年(昭和30年)12月12日 - 1975年(昭和50年)12月6日の20年間にわたって高知県の知事を務めた。

主な経歴

逸話

  • 1963年(昭和38年)に建設が始まった早明浦ダムの建設の際、記念の石碑を建てることとなった。そこには「四国はひとつ」という開発スローガンが刻まれる予定であったが、溝渕は開発一辺倒のスローガンに断固反対し、その文言を「四国のいのち」に変更させたという逸話がある。

著作

脚注

注釈

  1. ^ a b 戦前の日本では、溝渕や秦野章日本大学専門部〈夜間部〉→高文行政科合格→内務省→警察庁〈警視総監〉)のような「無学歴者」が官界に入るには、高等試験司法科(戦後の司法試験)に合格して司法官(戦後の裁判官/検事)に任官するのが順当であり、高等試験行政科(戦後の国家公務員上級試験)に合格して行政官(キャリア官僚)に任官するのは遙かに難しかった[4]。秦野は、秦野の将来を嘱望する上司(自らがキャリア官僚であり、高文行政科の難しさを熟知していた)から「〔無学歴で高文行政科を目指すなど〕君、そんなことむちゃだ。よせよ(〔〕内は引用者が挿入)[4]と忠告されたと言う。

出典

  1. ^ a b 『板垣精神 -明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念-』”. 一般社団法人板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2025年7月8日閲覧。
  2. ^ a b c 内政問題研究会 1954, p. 190
  3. ^ 溝淵 1950, p. 147
  4. ^ a b 秦野 1988, pp. 76–78, 第1章 山は登るもの:高文行政科合格
  5. ^ 秦野 1988, p. 83
  6. ^ 溝淵 1950, p. 150

参考文献

  • 内政問題研究会(編著)『官僚の系譜:権力の座に居る人たち』厚文社、1954年。 
  • 秦野章『逆境に克つ:「一日生涯」わが人生』講談社、1988年。 
  • 溝淵増巳『巡査の記録』立花書房、1950年。 

外部リンク

公職
先代
川村和嘉治
高知県知事
公選第4-8代:1955年 - 1975年
次代
中内力



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