港湾都市としての隆盛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/05 03:54 UTC 版)
「ダルース (ミネソタ州)」の記事における「港湾都市としての隆盛」の解説
20世紀に入ると、市はさらに成長を続けていった。初期の市民はダウンタウンや丘の斜面に住んだ。1900年代には、ダルース港は総貨物取引量でニューヨーク港を上回り、アメリカ合衆国最大の取引量を誇る港湾となった。市には新聞社が10社、銀行は6行あり、11階建ての高層ビル、トーレー・ビルディング(Torrey Building)も建っていた。1907年には、USスチールがダルースに500万-600万ドルの製鉄所を建てると発表した。この製鉄所が完成し、操業を始めたのはその8年後であった。この頃、ダルースは人口20万-30万人まで成長するであろうと予想されていた。製鉄所が完成すると、その近辺にはモーガンパークという企業城下町が形成されていった。現在ではモーガンパークはダルースの一地区となっている。 20世紀初頭、ダルースはフィンランド国外最大のフィンランド人コミュニティを有していた。数十年間にわたって、ダルースではフィンランド語の新聞が刊行されていた。また同じ頃、ダルースには小さなアフリカン・アメリカンのコミュニティもあった。しかし1920年にダルースリンチ事件が起こると、アフリカ系の住民はダルースの町を離れていった。現在でもダルースにはアフリカ系の住民は少なく、2000年の国勢調査では、ダルースの黒人人口率はわずか1.63%であった。 20世紀初頭から後半にいたるまで、ダルースはUSスチールの製鉄所をはじめ、セメント工場、釘工場、針金工場を有する工業都市、そしてメサビ鉄山をはじめとする周辺の鉄山で産出される鉄鉱石の積出港を抱える港湾都市として栄えてきた。第一次世界大戦の最中、1916年には、セントルイス川岸の造船所は8隻の軍艦を同時に造ることができた。造船所の周辺にはリバーサイド地区が形成された。このような工業需要の急激な増加は第二次世界大戦においても見られた。第二次世界大戦後もダルースの人口は増え続け、1960年には人口106,884人でピークに達した。この頃においてもフィンランド人の移民が多く流入し、インダストリアリスティ(Industrialisti)というフィンランド人労働者のための新聞が刊行されていた。
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