浜松市長時代
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1979年の浜松市長選挙に立候補して当選し、1999年まで5期20年間市長を務めた。就任時の浜松市の人口は40万人台だったが、退任時(平成の大合併前)には60万人台となっている。 戦後には各地で金太郎飴のような鉄筋コンクリートの学校建築が作られたが、建築学科出身の栗原は学校建築を重視した。1981年完成の浜松市立滝沢小学校は全国に類を見ないデザインの建物であり、内部にコミュニティーセンターやオープンスペースのグループ学習室が設置されたのも大きな特徴である。1982年完成の浜松市立都田南小学校、1984年完成の浜松市立葵西小学校や浜松市立三方原中学校、1985年完成の浜松市立東陽中学校、1987年完成の浜松市立富塚中学校なども、個性的な形状や色彩で注目を集めた。 文化的施設では、1984年に賀茂真淵記念館、1985年に浜松まつり会館、1986年に浜松科学館、1988年にクリエート浜松と浜松復興記念館と浜松文芸館、1990年に浜松アリーナとフォルテを開館させた。1982年には国鉄浜松駅前の円形バスターミナルを完成させ、1990年代前半にはアクトシティ浜松を完成させた。全国的にいち早く1981年にテクノポリス構想を推し進め、1991年に浜松工業技術センターを開所させた。浜松市長在職中には、全国市長会会長(第22代)、静岡県市長会会長なども務めた。 1999年に引退。後任は衆議院議員を辞職して浜松市長選挙に臨んだ北脇保之である。2013年10月9日に死去した。
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