浅田家の歴史
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淺田家系図によると、「本国」は摂州浅田(大阪府豊中市蛍池、江戸期は麻田村)で、板倉周防守家中の浅田孫助の弟・小三郎(上狛村庄屋・九郎右衛門?)が天正年間に山城国上狛に来たという(天正8年(1580年)の上狛村桑垣外の売券あり)。天正10年(1582年)に豊臣秀吉による指出徴収がはじまる。この年の九月に興福寺が秀吉に差し出した二冊の年貢帳があるが、それは当地である「狛野荘」の差配人二人が提出したものである。上狛村の「検地」は関白秀吉の時代、長束正家によって天正17年(1589年)に 本格的に施行されるが、これにより「荘園制」が解体され、上狛村という村域が確定されることになる。そしてこの検地により新参者の淺田家は上狛村の庄屋に任命されるのである。当地は「山城国一揆」が発生した地域であり、その主謀者であった「狛氏」一族の本拠であったから、そこに楔を打ち込もうという秀吉方の思惑の使命を受けたものと推察されている。 のち徳川家康の天下となり、当地は藤堂高虎の津藩の支配下となる。山城国・大和国に存在する津藩の飛び地は城和領(じょうわりょう)と総称され、大和国古市に置かれた城和奉行により統括された。この辺り一帯の大庄屋として君臨するようになるまでには、さまざまのことが生起するが、それらを乗り越えて淺田一門が伸びてゆくことになる。16世紀末から17世紀にかけての当地における浅田家の位置づけは、天正年間に上狛村に来住した淺田九郎右衛門は豊臣政権の後ろ盾もあって、新参者ながら御牧勘兵衛代官所時代に庄屋となったが、持ち高も名寄帳の第五位である。当地は狛氏支配の頃から在所を囲む「環濠」のある集落であった。この囲いの中を「垣内」と称する。この垣内を単位とする地域的な結合として、年貢・算用は1,300石の「惣」が組織され四人の庄屋が選ばれた。淺田家は親(二代目道善?)が慶長10年代に40歳代死去したためその子はまだその中には入れなかったが、元和9年(1623年)から庄屋に就任して「惣」に取り込まれた。しかも浅田家は17世紀半ばまでは経済的に他の百姓から突出した存在ではなかった。むしろ、同じ株内では「狛」旧臣の松井家と同規模であり、上狛村としてみるならば他の庄屋と同等の経済力であったと推定される。ところが、17世紀後半に浅田家は持ち高を急速に伸ばし、他の百姓から突出してゆく。そのような経済的な発展をもたらしたのは、浅田家の江戸進出による富の蓄積と、それを元にした土地の取得にあった。この経済的発展により、旧来の在地の年寄衆である松井家を追い落とし、外の庄屋の追随を許さない大庄屋として、更に地位を向上させていくことになる 。
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