法源としての自然
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 23:42 UTC 版)
ここで自然とは、自然本性一般のことではなく、外的な自然環境のことである。外的な自然が自然法の法源となるのは、専ら外的な自然環境と人間の自然本性との連続性が強調されるときである。これはとりわけヘラクレイトスおよびストア派の自然法論において見られ、そこでは自然学と倫理学とが連続性を保っている。このような場合には、自然法則と自然法がほとんど同義で語られることが多く、何らかの傾向性(例えば結婚は普通雌雄で行われることなど)が自然法とされることもある。 自然法とは、自然が全ての動物に教えた法である。なぜなら、この法は、人類のみに固有のものではなく、陸海に生きる全ての動物および空中の鳥類にも共通しているからである。雌雄の結合、すなわち人類におけるいわゆる婚姻は、実際にこの法にもとづく。子供の出生や養育もそうである。なぜなら、私が認めるところによれば、動物一般が、たとえ野獣であっても、自然法の知識を与えられているからである。 — 『学説彙纂』第1巻第1章第1法文第3項 人間の自然本性を理性的であると解する立場から見れば、理性もまた自然法の法源となる。特に理性を自然法の法源として独立させたのは、近世自然法論者たちである。彼らは自然法を正しい理性の命令と定義して、神的な要素をそこから取り除いている。純粋に理性が自然法の法源となるときには、自然法は実定法以外の合理的な法を意味する。この特徴はとりわけホッブズに見られ、彼は自然法を、単に人間が合理的に思考し、その自然本性としての死への恐怖にもとづいて意思が受け入れるであろう法と解している。
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