法然上人流血の尊像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/03 15:55 UTC 版)
法然が自ら刻んだ木像を安置していたが、江戸時代初頭に黒谷金戒光明寺が焼失、幕命により上人像を送り出した。その後、当寺の住職が上人の夢を見、檀徒の池田市左衛門を使いとして彫刻師を求めて上方へ向かう途中、岡山の宿で偶然堺の仏師藤原源太夫と出会った。その言によると法然上人の霊夢によって生口島に下っているという、そこで共に帰り来たって上人の像を刻んだ。池田氏試みに像の喉元にあたる部分にノミを突き当てれば鮮血ほとばしり出でた、いまだにその後が薄黒く残るという。
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