河野家と二・二六事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/12 20:14 UTC 版)
河野は現役を離れると熊本県に居住したが、元来河野家と熊本には縁がなかった。次男の司は、子弟教育を考えたうえでのことと推測している。司から見た河野は「曲がったことの嫌いな、むしろ頑固一徹の、いわば古武士的性格」、「絶対皇室中心主義にかたまった父」であった。海軍時代の河野は大久保彦左衛門になぞらえられることもあったという。 六男一女に恵まれたが、河野が軍人に向いていると考えていたのが、三男の寿(航空兵大尉)である。河野は寿に教育勅語、素読などの教育を施している。河野はその死に際し、少尉に任官した寿の軍服姿を眺め喜んだ。 寿は二・二六事件に際し、牧野伸顕を襲撃して負傷する。寿は同志に自決を勧める書を遺し、また牧野を護衛し死亡した巡査の遺族に詫びるよう依頼し、果物ナイフで割腹自決 した。二・二六事件の際、寿の姉は「桜の花のように、潔く死んでもらいましょうよ」と語っていたが、面会に際し涙を見せることで、寿の自決の決心を鈍らせることを懸念していた。寿の弟二人は司に寿の自決を求める書を寄せ、うち血判した五男は寿の自決後に「本当に御立派に生きてくださいました」と再度書を寄せ、この書は寿の棺に置かれた。この五男は第二次大戦の敗戦後満州移民団の引き上げを指揮し、伝聞情報では中国で銃殺刑に処せられた。司(東京商大出身)は寿に自決用の毒薬を渡し、戦後は二・二六事件の調査、慰霊に尽力した。
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