江戸時代中期・後期
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正徳元年(1711年)刊の『ほう蔵びく』正本がある。同じ法蔵比丘で結城孫三郎として正本(宝永年間)のものもあるようだが同一のものと考えられている。結城孫四郎の正本(元禄□年正月刊)もある。 『吉原雑話』によれば、正徳から享保にかけて説経や浄瑠璃を語った結城一角という三味線の名手がいたという。この結城一角は『江戸操座本連名』(宝永5年)にある結城一学と同一人物とみられている。享保末頃にも説経節が流行しており吉原の座敷にも行って説経を語ったとする太夫の中に結城孫三郎の名が見える。享保年間には説経が絶えてしまったとする喜多村筠庭の記載とは相違があるが、三田村鳶魚が黒木勘蔵の言を引いて述べている通り衰えはしたものの未だ挽回の仰望する状況で、宝永5年(1708年)3月27日の勝扇子にて歌浄瑠璃元は説経也の頭書が必要だったことからも結城武蔵が説経節をやめて間もなくであったことが窺い知れ、説経節から歌浄瑠璃への転換が行われていたことが分かる。 当時諸国浄瑠璃定芝居名代として江戸結城座の記載がある。荒御霊新田神徳(安永8年2月。伽羅先代萩初演(天明5年8月)。天保6年に堺町から葺屋町に移動した祇園守太夫こと藤永福寿太夫が結城座に出た(天保7年年始め)。猿若町で初芝居(天保14年8月)。女郎花縁助太刀(文化4年7月)。宝暦の頃に結城十太夫(丸に鷹の羽。嘉永5年に猿若町2丁目の結城座が操芝居を行った。猿若町に移転してから後は繁盛しておらず休座していた。安政6年6月から飯倉瑠璃光寺境内で結城座から始まる百日興業を行う。慶応2年に猿若町から米沢町に移転し操芝居を行った。茶屋も数軒できる等繁盛したが秋頃から休座。
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