江戸時代中期後期とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 江戸時代中期後期の意味・解説 

江戸時代中期・後期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/30 14:28 UTC 版)

結城座」の記事における「江戸時代中期・後期」の解説

正徳元年1711年)刊の『ほうびく』正本がある。同じ法蔵比丘結城孫三郎として正本宝永年間)のものもあるようだ同一のものと考えられている。結城孫四郎正本元禄年正月刊)もある。 『吉原雑話によれば正徳から享保にかけて説経浄瑠璃語った結城一角という三味線名手がいたという。この結城一角は『江戸操座連名』(宝永5年)にある結城一学と同一人物とみられている。享保末頃にも説経節流行しており吉原座敷にも行って説経語ったとする太夫中に結城孫三郎の名が見える。享保年間には説経絶えてしまったとする喜多村筠庭記載とは相違があるが、三田村鳶魚黒木勘蔵の言を引いて述べている通り衰えはしたもの未だ挽回仰望する状況で、宝永5年1708年3月27日勝扇子にて歌浄瑠璃元は説経也の頭書必要だったことからも結城武蔵説経節をやめて間もなくであったことが窺い知れ説経節から歌浄瑠璃への転換が行われていたことが分かる当時諸国浄瑠璃定芝居名代として江戸結城座記載がある。荒御霊新田神徳安永8年2月伽羅先代萩初演天明5年8月)。天保6年堺町から葺屋町に移動した祇園太夫こと永福寿太夫結城座出た天保7年年始め)。猿若町初芝居天保14年8月)。女郎花縁助太刀文化4年7月)。宝暦の頃に結城十太夫丸に鷹の羽嘉永5年猿若町2丁目結城座操芝居行った猿若町移転してから後は繁盛しておらず休座していた。安政6年6月から飯倉瑠璃光寺境内結城座から始まる百日興業を行う。慶応2年猿若町から米沢町移転し操芝居行った茶屋も数軒できる等繁盛した秋頃から休座。

※この「江戸時代中期・後期」の解説は、「結城座」の解説の一部です。
「江戸時代中期・後期」を含む「結城座」の記事については、「結城座」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「江戸時代中期後期」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「江戸時代中期後期」の関連用語

江戸時代中期後期のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



江戸時代中期後期のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの結城座 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS