江戸の建設と鎌倉河岸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 18:26 UTC 版)
徳川家康が江戸城築城の建築諸材料の荷上場として選ばれたのが鎌倉河岸であった。外堀川沿岸で水運も便利であり、本丸にも近いため、明治維新まで荷上場として使用された。江戸城築城の大工の大棟梁として、京都から呼び寄せられた甲良宗広は鎌倉河岸に邸宅を拝領した。明治維新まで、甲良家は代々同じ土地に邸宅を構えていた。また、甲良家は江戸城築城の際の設計図面を連綿と保管し続け、火災による焼失といった事態が発生した場合にはその図面を参考に再建工事が行われた。 鎌倉河岸周辺には遊女屋が15軒ほど置かれていた。これは駿河府中の弥勒町から移転してきたもので、港町には遊女屋は必要不可欠な存在であったためである。その後1617年(元和3年)に、庄司甚左衛門に対して葦屋町に遊女屋を作ることの許可が下り、江戸中の遊女が一か所に集められた。江戸の町は、新興都市として急成長をとげるとともに、武士・浪人・商人・人夫などといった多様な人物が蝟集した。遊廓の設置は、参勤交代の武士や工事従事労働者など単身赴任者の江戸への流出に伴う、著しくバランスを欠いた男女比の影響下によるものであった。 その他、元吉原に集められる前は鎌倉河岸の他に、麹町に16、7軒、常磐橋と道三河岸の柳町に20軒ほど遊女町が存在していた。 このような経緯から鎌倉河岸は江戸遊里発祥の地とされている。
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