江南軍の出航とは? わかりやすく解説

江南軍の出航

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:00 UTC 版)

元寇」の記事における「江南軍の出航」の解説

江南軍作戦計画 一方江南軍は、当初作戦計画異なって東路軍が待つ壱岐島目指さず、平戸島目指した。江南軍平戸島目指し理由は、嵐で元朝領内遭難した日本の船船頭地図を描かせたところ、平戸島大宰府近く周囲が海で囲まれ軍船停泊させるのに便利であり、か日本軍防備固めておらず、ここから東路軍合流して大宰府目指し攻め込むと有利という情報得ていたためである。 江南軍の出航 6月中旬頃、元軍総司令官日本行省左丞相アラカン阿剌罕)と同右丞・范文虎同左丞・李庭率い江南軍は、総司令官アラカン阿剌罕)が病気のため総司令官アタカイ阿塔海)に交代したこともあり、東路軍より遅れて慶元寧波)・定海等から出航した総司令官アタカイ阿塔海)は乗船し渡航した気配がないため、実質江南軍総司令官は右丞・范文虎であったとみられる江南軍先鋒部隊寿春万戸呉安民が務めた江南軍航路については、直接江南地方から平戸島向かった部隊とは別に江南地方から出航後、ケイダラクダイ(邢答剌忽台)の部隊のように朝鮮半島西南済州島経て平戸島向かった部隊もあった。 江南軍の出航時期について 江南軍正確な出航時期不明唯一確認できるのは管軍万戸カラダイ剌歹)率い軍船6月18日出航したことが分かるのみである。カラダイ剌歹)率い軍船6月18日江南軍全軍と共に出航したかは明らかではない。 江南軍先遣部隊 先立って江南軍は、東路軍向けて平戸島沖での合流促す先遣隊派遣し壱岐島先遣隊東路軍合流した江南軍先遣隊かは不明であるが、広橋兼仲日記勘仲記』(6月24日条)によると対馬宋朝船(南宋型の船)300余艘が現れたことが伝聞として記載されている。また、壬生顕衡の日記弘安四年日記抄』(6月27日条)にも「異國襲来」とあり、詳細不明ながら元軍と日本軍との間で合戦があったという早馬による報告があったことが記されている。 江南軍平戸島鷹島到着 6月下旬慶元寧波)・定海等から出航した江南軍主力は7昼夜かけて平戸島鷹島到着した平戸島上陸した元帥張禧率いる4,000人の軍勢は塁を築き陣地構築して日本軍襲来備えと共に艦船風浪備えて五十歩の間隔平戸島周辺停泊させた。

※この「江南軍の出航」の解説は、「元寇」の解説の一部です。
「江南軍の出航」を含む「元寇」の記事については、「元寇」の概要を参照ください。

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