水産振興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/14 09:16 UTC 版)
ドイツ留学時、グナイストと当時ベルリンで開催されていた万国水産博覧会の話に及び、日本の漁獲量がその豊富な水産資源に比して少ない点を指摘され、ドイツ水産会(ドイツ語版)の存在を教えられたため、同様の機関設立を山田に諮り、1882年(明治15年)1月大日本水産会が設立され、名誉会員、漁業法律学芸委員に就任した。 1888年(明治26年)、深刻化する漁場紛争や乱獲問題に対処するため、漁業権等について定めた漁業法案を提出したが、二度とも成立には至らなかった。 1889年(明治22年)水産伝習所長に就任し、1894年(明治27年)日清戦争に際し、かつてドイツでヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケに普仏戦争の勝因は缶詰だと聞いたため、缶詰を製造して軍部に送った。 1896年(明治29年)3月、日本近海に進出する他国漁船に対抗するため、日本の遠洋漁業に対し補助金を要請する議案を貴族院に提出した結果、1897年(明治30年)遠洋漁業奨励法が公布された。1897年(明治30年)3月、1891年(明治24年)より再三農林大臣に請願していた水産局復活が時の大隈重信大臣に認められ、6月復活した。 1896年(明治29年)、水産調査会で水産博覧会開催が決定されると、これを議会に諮って可決され、1897年(明治30年)9月から11月まで神戸市で第二回水産博覧会が開催された。1897年(明治30年)、規模拡大により財政維持が困難となっていた水産伝習所の官設化を議会に働きかけ、3月官設水産講習所が設置された。1898年(明治31年)1月、大日本水産会において小松宮彰仁親王に水産翁の称号を賜った。
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