水晶の夜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 15:49 UTC 版)
「ラインハルト・ハイドリヒ」の記事における「水晶の夜」の解説
詳細は「水晶の夜」を参照 1938年10月28日にハイドリヒは、第一次世界大戦後にドイツへ移住してきたユダヤ系ポーランド人1万7000人をポーランドへ送り返す追放命令を出した。この命令に基づき、ドイツ警察はポーランド系ユダヤ人を次々とトラックや列車に乗せてポーランドへ移送しようとしたが、ポーランド政府が受け入れを拒否して国境が封鎖された。ユダヤ人たちは国境の無人地帯で家も食料も無い状態で放浪することとなり、窮乏した生活を余儀なくされた。 この中にセンデル・グリンシュパンの一家があった。センデルはパリにいる17歳の息子のヘルシェル・グリュンシュパンに惨状を訴えた。ヘルシェルはこれに激昂してドイツ大使館員エルンスト・フォム・ラートを暗殺して世にユダヤ人の惨状を訴えることを企図した。 ラート暗殺を受けて1938年11月9日から10日にかけてドイツ全土で反ユダヤ主義暴動「水晶の夜」が発生したが、この際にハイドリヒは、暴動の取り締まりを行わぬよう各地の警察署長に次のように命令している。 「(1938年)11月9日から10日かけてドイツ全土でラート書記官殺害にからんで反ユダヤデモが予定されている。次のように処理せよ。 ドイツ国民の生命財産に害を及ぼさない方法のみ許可する。たとえば周辺に延焼の恐れがなければシナゴーグを放火しても構わない。 ユダヤ人所有の会社・商店およびアパートは破壊してもよいが、物品の略奪は認めない。 警察は本指令の遂行を監督し、掠奪者は逮捕する。」そのためハイドリヒが水晶の夜の黒幕とする説もある。 ハイドリヒは、この事件の後の1938年11月12日に今後ユダヤ人に黄色い「ダビデの星」を着用させることをヒトラーに提案したが、ヒトラーから却下されている。黄色いダビデの星のドイツ国内での着用義務化は1941年9月1日までなされなかった。なお黄色いダビデの星は、1939年11月23日にポーランドで実験的に導入された。
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