民営との競合から共存へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 06:33 UTC 版)
「横浜市営バス」の記事における「民営との競合から共存へ」の解説
同時期には民営バスも路線網を大幅に拡充しており、1948年(昭和23年)に東京急行電鉄から京浜急行電鉄が分離独立。1949年(昭和24年)には江ノ島電気鉄道が神奈川中央乗合自動車から一部路線を譲受。1950年(昭和25年)には相模鉄道が路線バスを新規開業した。こうして増加した民営バスと市営バスとは路線競合が再燃、特に神奈中・相鉄とは激しく競合し「戦国時代」と呼ばれるほどの状況となってしまった。このため交通局は不毛な対立を避け運行円滑化を図るべく、1955年(昭和30年)以降に市内民営バス各社と「乗合自動車経営路線の実施計画に関する路線協定」を締結していった。協定書には全四項あり、第一項では共同運行路線のダイヤ厳守について、第二項では新規路線開設に当たっての事前協議について、第三項では共同運行路線ダイヤの事前協議について記されている。しかし協定締結後もしばらくは安定とはいかず、神奈中と井土ヶ谷 - 六ッ川線の路線免許申請で競合してしまい、運輸省の仲裁により結局神奈中が路線を開設することとなったり、相鉄が23路線・93kmの大規模な路線申請をした際には前述の協定に違反するとして大きな問題となるなどした。それでも昭和30年代後半には対立は収束に向かい、1968年(昭和43年)には市営・神奈中・相鉄の3社局共同運行であった62系統千丸台団地線を皮切りに、共同運行路線で各社局の共通定期券が設定されるなど、市営バスと同様に市民の足を担う存在となっていた民営バスとの共存の道を探るようになる。
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