民吉、有田へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/07 15:57 UTC 版)
佐々を離れた民吉は有田焼の上絵の技法を知ろうと考え、天草出身の振りをして有田の上絵屋を訪れたが、鍋島藩の情報統制の厳しさから徒労に終わる。なお、民吉は有田に居る時期に堤惣右衛門の窯屋に30日ほど住み込んで丸窯の築窯方法を見覚えたと伝わっているが、鍋島藩が厳重に管理していた有田焼の皿山に他国の人間が住み込めたとは考え難く、働いたとすれば築窯業の家であろうと考えられている。 約4ヶ月を有田で過ごした民吉は改めて天草を訪れ、天中や宜珍に礼を述べた。なお、この際に宜珍から上絵の技法について伝授されるとともに 、瀬戸で使っている絵薬(呉須)の入手を依頼されている。東向寺の家来という通行手形を与えられた民吉は怱作1名を伴い、5月13日に帰途につき、6月18日に瀬戸へ帰り着いた。 なお、帰国の途中で宇土半島にあった網田焼の皿山に立ち寄ったほか、伊勢神宮にも参拝している。
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