歴史と「苅萱伝説」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 14:21 UTC 版)
「西光寺 (長野市)」の記事における「歴史と「苅萱伝説」」の解説
謡曲、説経節などで広まった「苅萱伝説」ゆかりの寺である。伝承によれば、苅萱道心(寂照坊等阿とも)は元は筑前国(現・福岡県)の領主で、俗名を加藤左衛門尉重氏といった。世の無常を感じた重氏は出家して高野山に赴き、仏道修行に励む。苅萱の出家後に生まれた子である石童丸と母は父を探して高野山に行き、女人禁制で母は麓に残る。石童丸は父と思しき苅萱を師として修業に励みつつ、「父ではないか?」と尋ねるが、出家の身である苅萱は涙を堪えて「そなたの父は死んだ」と告げる。石童丸が下山すると母が、帰郷すると姉も亡くなっていた。苅萱はその後、善光寺阿弥陀如来のお告げを得て信濃国に移って、正治元年(1199年)に善光寺近くに庵を営み、そこで往生を遂げた。この時の草庵が建仁元年(1201年)に寺院となったものが西光寺であるという。 一人残された石童丸は、信濃の方角に紫雲のたなびくのを見て信濃へ向かい、父の死の2年後の同じ8月24日、そこで没した。西光寺に伝わる2体の地蔵菩薩像は「苅萱親子地蔵」と称され、苅萱道心と石童丸がそれぞれに刻んだものとされている。西光寺にはこれを描いた『苅萱道心石童丸御親子御絵伝』が所蔵されており、聴衆に見せながら語り聞かせる絵解きを行っている。 1831年(天保2年)の善光寺本堂建立にあたっては、造営奉行で松代藩の家老であった小山田平太夫が西光寺に滞在した。当寺の本堂も善光寺の資材を用いて建立されたという。
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