歩兵砲指揮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/04/19 08:03 UTC 版)
「ジャン・オリヴィエ (武装親衛隊)」の記事における「歩兵砲指揮」の解説
ベルリン市内に多数設置されている救護所(野戦病院)の1つへ搬送されたフランスSS突撃大隊第4中隊長ジャン・オリヴィエは、一刻も早く自分の中隊へ戻ることを望んでいた。医師によって胸部と右手から砲弾の破片が摘出され、包帯が巻かれると同時にオリヴィエは救護所を立ち去った。 救護所から出た後、現在地がティーアガルテンであることを確認したオリヴィエは、ノイケルンのフランスSS突撃大隊へ戻る助けになることを期待しつつ、近くにいた武装親衛隊の砲兵部隊に事情を説明した。そして予期せぬことに、砲兵部隊の指揮所でオリヴィエが対面した人物はオリヴィエの旧知ヘラーSS大尉(SS-Hstuf. Heller:ブレスラウSS歩兵砲学校時代の教官)であった。 しかし、ヘラーSS大尉はオリヴィエに救いの手を差し伸べるどころか、オリヴィエを2門の150mm歩兵砲から成る砲兵部隊の指揮官に据えた。オリヴィエが指揮を執るよう命じられたこの砲兵部隊は次の特徴を持っていた。 歩兵砲操作要員は第2SS装甲師団「ダス・ライヒ」から送られてきた補充兵(火砲操作訓練の経験は無いが士気は旺盛)。 砲長と照準手は2名のSS伍長が務めた。 歩兵砲はいずれも機械化(民間の自動車で牽引)されていた。 砲弾運搬車はフランスのシトロエン社製のトラック「シトロエン・タイプ45」(Citroën P.45)。 オリヴィエの砲兵部隊は直ちに戦闘へ投入された。近隣の重要な交差点を確保するため、2門の歩兵砲は交差点から500メートルほど離れた場所の道に布陣した。それからわずか15分後に最初のソビエト赤軍戦車が出現したが、歩兵砲はこの戦車を即座に撃破し、若いドイツ兵たちは喜び上がった。オリヴィエの砲兵部隊は続いて出現した8輌の赤軍戦車も次々と撃破していったが、同時にそれは歩兵砲の位置を敵に知らしめることとなった。 そして、周囲一帯に降り注いだ「スターリンのオルガン」のロケット弾によって歩兵砲1門が撃破され、操作要員が戦死し、砲弾運搬車のシトロエンは吹き飛ばされてしまった。それでもなお、オリヴィエは残った2門目の歩兵砲の位置を変更しつつ、さらに3輌の敵戦車を撃破した。しかし、残弾が無くなったことと周囲の地面が(ロケット弾で)穴だらけになったことによって、歩兵砲はこれ以上の攻撃と移動が不可能となった。 最後の歩兵砲が使い物にならなくなった後、オリヴィエは生存者数名を集めてヘラーSS大尉の指揮所まで後退した。ヘラーSS大尉はオリヴィエが原隊(フランスSS突撃大隊)に戻れるようにすると約束したが、この時点ではまだオリヴィエを手放そうとせず、次は総統官邸の周辺へ斥候に向かうようオリヴィエに命令した。
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