武装SS「髑髏」師団長
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「テオドール・アイケ」の記事における「武装SS「髑髏」師団長」の解説
第二次世界大戦開戦後の1939年10月、アイケは髑髏部隊の連隊をまとめて武装親衛隊の師団とするよう命令を受けた。こうして1939年11月1日に髑髏部隊連隊と一部の強化警察部隊を元にして「髑髏」師団(トーテンコープフ師団)を編成し、アイケは師団長となった。なお強制収容所監視官の任務はリヒャルト・グリュックスに譲っている。 アイケ率いる髑髏師団は、ダッハウで訓練を開始し、ヘルマン・ホト大将の第15装甲軍団やエヴァルト・フォン・クライスト大将の第1装甲軍などに配属され、西方電撃戦に参加した。セーヌ川の渡河地点を占領し、ロワール川の橋頭堡を奪取する活躍をする。しかし、5月27日には指揮下のトーテンコップフ第2連隊が、イギリス軍捕虜100名弱を銃殺する事件も起こしている。また勇戦した髑髏師団はフランス戦で多くの捕虜をとらえていたが、それが英仏の植民地から連れてこられた有色人種(アフリカ系やアラブ系等)の兵士であった時には多くの場合、捕虜にすることを拒んでその場で射殺させている。 翌1941年にはソ連への奇襲攻撃「バルバロッサ作戦」でヴィルヘルム・フォン・レープ元帥率いる北方軍集団の配下で戦う。1942年2月8日、トーテンコップフ師団を含む6個師団が、デミャンスクでソ連軍に包囲された時、アイケの決然とした統率力により最後まで持ちこたえたことから、第16軍のエルンスト・ブッシュ上級大将から高い評価を受ける。しかしこの戦いのために髑髏師団の兵士は8割が死傷した。生存兵達は1942年10月下旬に撤退し、フランスへ送られて再編成に入った。その後1943年2月まで師団とともにフランスにあった。 1943年2月初め、エーリヒ・フォン・マンシュタイン元帥の南方軍集団に加わって東部戦線に復帰した。しかし第三次ハリコフ攻防戦開戦直後、オリョール近郊を偵察飛行中に搭乗していたFi 156を撃墜され、戦死した。
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