武装親衛隊編入後
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「ブロニスラフ・カミンスキー」の記事における「武装親衛隊編入後」の解説
解放軍は1944年初頭に戦力低下のため後方地域へ移動し、ベラルーシ人を主とする補充を受けた上で武装親衛隊に加えられ、カミンスキーは親衛隊少将に任命された。 武装親衛隊に加えられた解放軍は、1944年6月に「カミンスキー特務旅団」の名称を与えられるが、直後に「SS武装突撃旅団 RONA」に変更される。1944年8月には、「第29SS武装擲弾兵師団」に昇格し、カミンスキーは師団長になる。1944年8月のワルシャワ蜂起では、ヒムラーの要請により、約1,700人の鎮圧部隊を率いて参加したが、本来の鎮圧を目的とした戦闘は行わず、もっぱら略奪と非戦闘員に対する虐殺や婦女暴行に終始した。 1944年8月28日、カミンスキーはリッツマンシュタットにおける会議のために車で移動中、機関銃で殺害された。なお、カミンスキーの死に関しては、指揮下の部隊の度重なる軍規違反や、カミンスキーがドイツ本国へ送る略奪品の横領を行っていることを知った親衛隊本部がカミンスキーを会議と称して呼び出し、その移動中において暗殺したとも言われている。親衛隊本部はカミンスキーの死をパルチザンの襲撃によるものだと発表した。 カミンスキーが殺害された直後に第29SS武装擲弾兵師団は解散され、残った師団の構成員は第600歩兵師団に編入された。
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武装親衛隊編入後
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「カミンスキー旅団」の記事における「武装親衛隊編入後」の解説
1944年3月、ナチス・ドイツに忠誠を誓ったロシア国民解放軍は、正式に武装親衛隊に組み入れられ、同年6月には「カミンスキー特務旅団」の名称が与えられたが、その直後に「SS武装突撃旅団 RONA」に変更されている。そして、隊長のカミンスキーは親衛隊少将に任命されると同時に旅団長にも任命された。 1944年8月、師団に昇格し、「第29SS武装擲弾兵師団」の名称が与えられた。また、同月に発生したワルシャワ蜂起では鎮圧のために動員されたが、虐殺、略奪、婦女暴行などをするばかりで、戦闘ではほとんど役に立たなかった。 師団長のカミンスキーは同月下旬、銃撃を受けた車の中で他殺体となって発見された。親衛隊本部はカミンスキーの部下たちにパルチザンによる襲撃と説明、この直後師団は解散され、第29SS武装擲弾兵師団の名称は、イタリア人部隊に与えられることになった(しかし、カミンスキーの殺害は、彼らによる乱暴狼藉を知った親衛隊隊長のハインリヒ・ヒムラーの指示によるとされている)。 残った師団の構成員は、第600歩兵師団に組み込まれることになったが、責任者のアンドレイ・ウラソフは、メンバーの選抜について厳密な審査を行っている。
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