武具への造詣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 15:44 UTC 版)
幾多の合戦に従軍した忠興は自身の使用する武具にも深い関心を示し、独自の考案を凝らしたが、特に打刀の拵(外装)では「肥後拵」と呼ばれる様式を、甲冑においては「越中具足」(「越中流具足」ないし「三斎流具足」とも)と称される形式を確立したことで知られる。 肥後拵は忠興が修めていた片山伯耆流居合術の刀法に適するように工夫されており、刀身と柄を短めに仕立て、片手での抜き打ちを志向している点や、鞘や金具の装飾にも茶道のわび・さびの感覚が反映されている点が大きな特徴である。また、忠興に召し抱えられて鍔など刀装具の製作に当たった林又七、西垣勘四郎、平田彦三、志水甚五といった金工家の家系は「肥後金工」として幕末まで熊本藩内で続いた。忠興自身が所用した肥後拵の例としては、「信長拵」や「歌仙拵」などが愛刀家の間で著名である。 越中具足もまた、忠興が実戦での経験を踏まえて、家臣の西村与左衛門、春田又左衛門と協力して考案・製作した、機能性に富んだ簡素な構造の当世具足のスタイルである。特に忠興が関ヶ原の戦いで使用したもの(黒糸威二枚胴具足)は勝利を収めた際の着料ということから「御吉例の甲冑」として細川家中で尊ばれ、以後、越中具足は歴代の熊本藩主や藩士の甲冑に踏襲された。
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