正映マキノ・宝塚キネマ
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「御室撮影所」の記事における「正映マキノ・宝塚キネマ」の解説
マキノ・プロダクションの新社としての新マキノ映画が解散した1931年(昭和6年)10月、牧野省三の長女・牧野冨榮の夫である高村正次が、直木三十五らの協力を受けて大衆文芸映画社を設立する。新興キネマと配給提携をとりつけ、直木の原作による『日の丸若衆』(監督後藤岱山)を製作、同年12月24日に公開されている。 「大衆文芸映画社」を参照 1932年(昭和7年)2月、大衆文芸映画社を経営する高村正次、および新興キネマ常務取締役であった立花良介が、マキノ本家と提携して正映マキノキネマを設立、故牧野省三の妻・牧野知世子を所長に据え、御室撮影所を正映マキノ撮影所と改称して、マキノ・プロダクションの製作停止以来、約1年ほどのブランクを経て再稼働する。同月、同撮影所は、原因不明の出火でステージを全焼する。バラックのステージを急造し、『二番手赤穂浪士』(監督マキノ正博)等の3作を製作したが、配給網が確立できず、資金繰り困難に陥り、同年4月には解散した。同作の配給権は日活に売却し、その売り上げを従業員への解散手当とした。同作は、同年4月8日に公開されている。 「正映マキノキネマ」を参照 半年のブランクを経た同年11月、高村正次は落日の東亜キネマを買収、同社の製作会社であった東活映画社の社長を辞任した南喜三郎とともに、宝塚キネマ興行を設立、御室撮影所を宝塚キネマ撮影所と改称して、映画製作を開始する。設立第1作は、東活映画から移籍した堀江大生を監督に『敵討愛慾行』を製作、同年12月15日、独自の興行網で公開した。1933年(昭和8年)7月、経営不振のために給料遅配が始まり、同年9月までで製作ラインが停止する。『片仮名仁義』(監督高村正次)、『大利根の朝霧』(監督後藤岱山)が、翌1934年(昭和9年)1月14日に公開されたのが、同社の最後の作品となり、同年2月には解散した。 「宝塚キネマ興行」を参照 同年夏、同撮影所は室戸台風によって倒壊した。
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