正映マキノ・宝塚キネマとは? わかりやすく解説

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正映マキノ・宝塚キネマ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/18 03:06 UTC 版)

御室撮影所」の記事における「正映マキノ・宝塚キネマ」の解説

マキノ・プロダクション新社としてのマキノ映画解散した1931年昭和6年10月牧野省三長女牧野冨榮の夫である高村正次が、直木三十五らの協力受けて大衆文芸映画社設立する新興キネマ配給提携とりつけ直木原作による『日の丸若衆』(監督後藤岱山)を製作、同年12月24日公開されている。 「大衆文芸映画社」を参照 1932年昭和7年2月大衆文芸映画社経営する高村正次、および新興キネマ常務取締役であった立花良介が、マキノ本家提携して正映マキノキネマ設立、故牧野省三の妻・牧野知世子を所長据え御室撮影所正映マキノ撮影所改称して、マキノ・プロダクションの製作停止以来、約1年ほどのブランク経て再稼働する。同月、同撮影所は、原因不明出火ステージ全焼する。バラックステージ急造し、『二番手赤穂浪士』(監督マキノ正博)等の3作を製作したが、配給網が確立できず、資金繰り困難に陥り、同年4月には解散した同作配給日活売却し、その売り上げ従業員への解散手当とした。同作は、同年4月8日公開されている。 「正映マキノキネマ」を参照 半年ブランク経た同年11月高村正次落日東亜キネマ買収同社製作会社であった東活映画社社長辞任した喜三郎とともに宝塚キネマ興行設立御室撮影所宝塚キネマ撮影所改称して、映画製作開始する設立第1作は、東活映画から移籍した堀江大生監督に『敵討愛慾行』を製作、同年12月15日、独自の興行網で公開した1933年昭和8年7月経営不振のために給料遅配始まり同年9月までで製作ライン停止する。『片仮名仁義』(監督高村正次)、『大利根朝霧』(監督後藤岱山)が、翌1934年昭和9年1月14日公開されたのが、同社最後作品となり、同年2月には解散した。 「宝塚キネマ興行」を参照 同年夏、同撮影所室戸台風によって倒壊した

※この「正映マキノ・宝塚キネマ」の解説は、「御室撮影所」の解説の一部です。
「正映マキノ・宝塚キネマ」を含む「御室撮影所」の記事については、「御室撮影所」の概要を参照ください。

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