欧州連合での外交政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 03:29 UTC 版)
「ハビエル・ソラナ」の記事における「欧州連合での外交政策」の解説
ソラナは中東諸国や、ボリビア、コロンビアといったラテンアメリカ諸国と欧州連合との間での協定に関する交渉に臨んできた。またユーゴスラヴィアに残った諸国の安定に関して、中心的な役割を果たした。すなわち、完全な独立を得るためにセルビアとモンテネグロに連邦国家を形成することを提案、この目的をコソボとヴォイヴォディナの独立要求をドミノ的に発生させないようにするためとした。この提案に対し、地元メディアは皮肉をこめて、新たな国家の名称を「ソラニア (Solania)」と報じた。 2002年1月21日、ソラナはグァンタナモ米軍基地に収容されている犯罪者について、ジュネーヴ条約に基づいた扱いをするべきだと発言した。また欧州連合はイラク侵攻のような戦争は、これから先、交渉による努力で解決するべきだと表明した。また、ソラナは自分の職務でもっとも困難を感じたのは、欧州連合加盟国の中で国連安全保障理事会の常任理事国でもあるイギリスとフランスが、対イラクをめぐる方針でその路線が一致しなかったときだと述べている。 イラクの体制変革を狙ったアメリカを東欧諸国が支持することが示された、いわゆるビリニュス書簡や、イギリス、イタリアを含む8か国が同様に発した書簡は共通外交・安全保障政策の権威が失墜したものと受け止められている。 またソラナはイスラエル・パレスチナ間の紛争解決においても重要な役割を果たしている。欧州連合のほか、国際連合、ロシア、アメリカで構成される中東カルテットの枠組みの中で、「和平へのロードマップ」の構築に尽力している。2004年7月22日、ソラナはそれまで拒否され続けてきたイスラエル首相アリエル・シャロンとの会談に臨み、欧州連合のロードマップへの関与に成功した。2005年1月9日のパレスチナ自治政府大統領選挙を妨害しているとしてイスラエルを非難するが、4日後には再びシャロンとの会談を行った。 2004年11月、ソラナはイギリス、フランス、ドイツ3か国とイランとの間で行われた核物質濃縮の停止を求める交渉を支援した。また同じ月にはウクライナ大統領選挙に関して候補者2人の仲介にあたり、翌年1月21日には正式に大統領に就任したヴィクトル・ユシチェンコと、将来の欧州連合への加盟について議論した。
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