橘真都我
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 23:32 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動橘 真都我(たちばな の まつが、生没年不詳)は、奈良時代の女官。正四位下中宮大夫橘佐為の四女・県犬養三千代の孫娘で、正一位左大臣橘諸兄の姪。従三位・武部卿藤原乙麻呂の室、のち従二位・右大臣藤原是公の室。氏姓は橘朝臣のち広岡朝臣、橘宿禰を経て再び橘朝臣。官位は尚蔵・従三位。名は麻都賀・麻都我・真都賀・真束・麻乙・麻通我とも表記される。
経歴
孝謙朝の橘奈良麻呂の乱の約2ヶ月後の天平勝宝9歳(757年)閏8月に、聖武天皇の夫人であった姉の古那可智・兄の橘綿裳らとともに広岡氏を授かっている。この時は無位で朝臣姓[1]。
淳仁朝の天平宝字5年(761年)正月には、藤原仲麻呂の娘の額とともに無位から従五位下に昇叙し、この時は橘姓に復しており、宿禰姓になっている[2]。
称徳朝の天平神護元年(765年)には、県犬養姉女らとともに従五位上[3]。光仁朝の宝亀2年(771年)には正五位下で、この時までに朝臣姓に復している[4]。同3年(772年)、久米若女とともに正五位上[5]、同7年(776年)、多治比古奈禰・久米若女とともに従四位下に昇叙する[6]。
桓武朝の延暦4年(785年)に藤原諸姉・百済王明信ともに正四位上になり[7]、翌5年(786年)には藤原諸姉・紀宮子とともに従三位に昇る[8]。
藤原乙麻呂に嫁して許人麿を産み、乙麻呂亡き後は、その継子の是公の妾として真友・雄友・弟友の母となっている。『公卿補任』延暦9年条には、藤原雄友は右大臣是公の三男で、母親は「尚蔵三位麻通我朝臣」とあり、延暦13年条にも藤原真友は是公の二男で、母親は雄友と同じであり、「尚侍従三位麻乙朝臣」と記されている。『尊卑分脈』には、「尚蔵従三位麻通我」とも記されている。
官歴
注記のないものは『続日本紀』による
- 時期不詳:無位
- 天平勝宝9歳(757年)閏8月18日:広岡朝臣に改氏姓
- 時期不詳:橘宿禰に改氏姓
- 天平宝字5年(761年)正月2日:従五位下
- 天平神護元年(765年)正月7日:従五位上
- 時期不詳:宿禰から朝臣に改姓
- 宝亀2年(771年)正月15日:正五位下
- 宝亀3年(772年)正月10日:正五位上
- 宝亀7年(776年)正月7日:従四位下
- 延暦4年(785年)正月9日:正四位上
- 延暦5年(786年)正月14日:従三位
- 時期不詳:尚侍・尚蔵
脚注
参考文献
- 『続日本紀』3 新日本古典文学大系14 岩波書店、1992年
- 『続日本紀』4 新日本古典文学大系15 岩波書店、1995年
- 『続日本紀』5 新日本古典文学大系16 岩波書店、1998年
- 宇治谷孟『続日本紀 (中)・(下)』講談社学術文庫、1992年、1995年
- 『日本古代人名辞典』4 - p1089・1090、竹内理三・山田英雄・平野邦雄編、吉川弘文館、1963年
- 『日本古代氏族人名辞典』p420、坂本太郎・平野邦雄監修、吉川弘文館、1990年
関連項目
- 橘真都我のページへのリンク