樟脳と佐久間総督による「理蕃」事業
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「樟脳と台湾」の記事における「樟脳と佐久間総督による「理蕃」事業」の解説
樟脳の需要が増すに連れて、樟脳採取用のクスノキの良木が高山でしか手に入らなくなり、日本資本の製脳業者からは原木採取の要求が高まっていた。そこで、第5代台湾総督の佐久間左馬太は、山地に住む先住民族の軍事的制圧を行うことにした。当時先住民族は「蕃人」と呼ばれ、「隘勇線」の外側にあるものを「熟蕃」、「隘勇線」の内側にあるものを「生蕃」と呼んだ。「隘勇線」とは、先住民族の住む山地を砦と柵で包囲して閉じ込めるものであり、電話線を架設し、必要な地点には砲台の設備があり、高電圧鉄条網、地雷なども使用されていた。総督府は、「隘勇線」を圧縮して先住民族の生活圏を狭め、その武装抵抗を誘発した。「熟蕃」側も採脳により生活圏を荒らされていたので、反乱を起こした。1900年(明治33年)のタイヤル族の反乱、1902年(明治35年)のサイシャット族パアガサン社の反乱、1905年(明治38年)の大豹社の反乱である。とりわけ1904年(明治37年)の鳳紗山方面の隘勇線圧縮作戦はクスノキを確保するために「生蕃」を高山に追い上げて食料を断ち、餓死を迫る残酷な作戦だった。1909年(明治42年)には、5カ年計画で軍隊を投入して総攻撃を行い、全島の隘勇線を圧縮して包囲網を狭めて「生蕃」を標高3000メートル級の高山が連なる台湾脊梁山系に追いあげ、かつ追いつめ、餓死か降伏かの択一を迫るという作戦を展開した。5年目の1914年(大正3年)には、脊梁山系の西側から台湾守備隊の兵力の大部分(3,108名)を投入し、東側から警察隊を投入し(3,127名)、最後の包囲圧縮を行い(太魯閣番の役)、5カ年計画を終了させた(同年8月19日)。
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