樟脳と佐久間総督による「理蕃」事業とは? わかりやすく解説

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樟脳と佐久間総督による「理蕃」事業

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/24 03:18 UTC 版)

樟脳と台湾」の記事における「樟脳と佐久間総督による「理蕃」事業」の解説

樟脳需要が増すに連れて樟脳採取用のクスノキ良木高山でしか手に入らなくなり日本資本の製脳業者からは原木採取要求高まっていた。そこで、第5代台湾総督佐久間左馬太は、山地に住む先住民族軍事的制圧を行うことにした。当時先住民族は「蕃人」と呼ばれ、「隘勇線」の外側にあるものを「熟蕃」、「隘勇線」の内側にあるものを「生蕃」と呼んだ。「隘勇線」とは、先住民族の住む山地を砦と柵で包囲して閉じ込めるものであり、電話線架設し必要な地点には砲台設備があり、高電圧鉄条網地雷なども使用されていた。総督府は、「隘勇線」を圧縮して先住民族生活圏狭め、その武装抵抗誘発した。「熟蕃」側も採脳により生活圏荒らされていたので、反乱起こした1900年明治33年)のタイヤル族反乱1902年明治35年)のサイシャット族パアガサン社の反乱1905年明治38年)の大豹社の反乱である。とりわけ1904年明治37年)の山方面の隘勇線圧縮作戦クスノキ確保するために「生蕃」を高山追い上げて食料断ち餓死を迫る残酷な作戦だった。1909年明治42年)には、5カ年計画軍隊投入して総攻撃行い全島隘勇線圧縮して包囲網狭めて「生蕃」を標高3000メートル級の高山連なる台湾脊梁山系追いあげ、かつ追いつめ、餓死降伏かの択一を迫るという作戦展開した5年目1914年大正3年)には、脊梁山系西側から台湾守備隊兵力大部分(3,108名)を投入し東側から警察隊を投入し(3,127名)、最後包囲圧縮行い太魯閣番の役)、5カ年計画終了させた(同年8月19日)。

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