梅原猛による異説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 05:11 UTC 版)
「人麻呂は下級官吏として生涯を送り、湯抱鴨山で没した」との従来説に対して、梅原猛は『水底の歌-柿本人麻呂論』において大胆な論考を行い、人麻呂は高官であったが政争に巻き込まれ、鴨島沖で刑死させられたとの「人麻呂流人刑死説」を唱え、話題となった。また、梅原は人麻呂と、伝説的な歌人・猿丸大夫が同一人物であった可能性を指摘した。しかし、学会において受け入れられるに至ってはいない。古代律令の律に梅原が想定するような水死刑は存在していないこと、また梅原が言うように人麻呂が高官であったのなら、それが『続日本紀』などに何一つ記されていない点などに問題があるからである。なお、この梅原説を参考にして、井沢元彦が著したデビュー作が『猿丸幻視行』である(ただし作中人物によって、益田勝実による批判が紹介されており、梅原説を肯定はしていない)。 『続日本紀』元明天皇の和銅元年(708年)4月20日の項に柿本猨(かきのもと の さる)の死亡記事がある。この人物こそが、政争に巻き込まれて皇族の怒りを買い、和気清麻呂のように変名させられた人麻呂ではないかと梅原らは唱えた。しかし当時、藤原馬養(のち宇合に改名)、高橋虫麻呂をはじめ、名に動物・虫など語を含んだ貴人が幾人もおり、「サル」という名前が蔑称であるとは言えないという指摘もある。柿本猨と人麻呂の関係については、ほぼ同時代を生きた同族という以上のことは明らかでない。益田勝実は、梅原が、人麻呂は処罰として名前を変えられ、位階も下げられたとし、死ぬまでには許されており位階ももとに戻ったため正史に記載されたとしていることから、それなら名前が猨のままなのはおかしいと指摘し、梅原はついに答えることができなかった。
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