梅原猛による調査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 21:15 UTC 版)
「鴨島 (島根県)」の記事における「梅原猛による調査」の解説
1972年(昭和47年)から、哲学者の梅原猛は雑誌『すばる』に「水底の歌(柿本人麻呂)」を連載して柿本人麻呂終焉の地として高津鴨島説を支持し、流刑説を唱えた。翌1973年(昭和48年)には『水底の歌-柿本人麿論』として出版され、鴨島伝説は再び議論の的となった。 1977年(昭和52年)、梅原は自ら団長となり7月16日から7月26日にかけて「大瀬」の海底調査を行った。調査チームはプロのダイバーや水中カメラマンをはじめ、NHKの撮影チームも同行する大規模なものとなった。この調査では、「大瀬」の岩盤とは異なる安山岩からなる直径20センチメートルから30センチメートルの砲丸のような礫が多数発見され、波蝕によって形成されたと思われる高さ1.2メートルと2メートルの2つの典型的な茸状岩(きのこ岩)や海蝕甌穴3か所など特徴的な微地形が確認されている。円礫は暗礁である「大瀬」に自然に乗り上げたと考えるのは困難であったし、いかに波の強い日本海とはいえ水深8メートルから11メートルの海底で茸状岩や海蝕甌穴を形成するほど波蝕が進むとも考えられない。これらから調査チームは、「大瀬」は過去の一時期島ないし半島であり、その後急速に水没したと推定したが、それが地震や津波によるものであったのか、また、いつの頃のことであるのかまでは確定することができなかった。
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