校舎の変遷とは? わかりやすく解説

校舎の変遷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 08:03 UTC 版)

京都市立稚松小学校」の記事における「校舎の変遷」の解説

小学校閉校後も一部残されている鉄筋造の校舎は、京都市内2番目に造られ鉄筋コンクリート製の建物であった最初校舎は、1869年明治2年10月26日間之町五条下ルの大津町校地開校した際のもので、瓦葺2階建の木造講堂28坪)と瓦葺平屋木造教室40坪)の2棟が、149坪余の敷地内に建つものであった現在の校地新築移転した際の校舎は、瓦葺2階建の木造講堂以前講堂移築)と瓦葺平屋木造教室120坪)からなる375坪の敷地を持つ校舎であった児童数に伴い校舎手狭となり、1885年明治18年2月教室棟新築し2階建てに、その後1902年明治35年から1911年明治44年の間に、2期分けて校地の拡張が行われた。結果校地は671坪余りにまで広がった大正になっても、児童数増加は更に続き狭小な校舎による不便は解消されなかったため、1923年大正12年、より大規模な改築工事実施することが決定した創立50年記念事業)。翌年8月28日起工1925年大正14年7月30日落成したのが、鉄筋コンクリート造3階建て地下1階)の本館・教室棟263坪)である。『わかまつ:稚小学校百周年記念誌によれば古老の話としてこの時のことが紹介されている。稚出身で、同志社卒業しアメリカ留学経験もある井貫一が大倉商事入社したため、建築関係のことで校舎建設当たった大倉組活動寄与した、というものである同様に古老の話として、新校舎にはコの字型シャッター設置され当時珍しかった防火シャッター備えた建築であったという。また、建物モデルにしたのは、大阪船場小学校校舎であったということも、語られている。その後第2期工事で、1929年昭和4年8月10日鉄骨鉄筋コンクリート造平屋建て講堂棟(98坪)と、鉄筋コンクリート造2階建ての職員室および作法室(38坪)が完成した。この当時敷地面積は、885坪であった。これらの校舎は、稚小学校閉校後、六条院小学校でも使用され六条院小学校閉校後に、本館・教室棟は、その一部残して解体された。

※この「校舎の変遷」の解説は、「京都市立稚松小学校」の解説の一部です。
「校舎の変遷」を含む「京都市立稚松小学校」の記事については、「京都市立稚松小学校」の概要を参照ください。

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