染木正信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/24 15:03 UTC 版)
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| 時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 | 
| 生誕 | 万暦18年(1590年)頃 | 
| 死没 | 寛文9年8月9日(1669年9月4日) | 
| 別名 | 通称:八右衛門 | 
| 戒名 | 光誉月清 | 
| 墓所 | 文京区向丘の正行寺 | 
| 主君 | 千姫 | 
| 氏族 | 染木氏 | 
| 父母 | 父:李氏 | 
| 兄弟 | 早尾、正信 | 
| 子 | 正美 | 
染木 正信(そめき まさのぶ)は、江戸時代前期の朝鮮出身の武士。通称は八右衛門。幼少期に姉とともに日本軍に捕えられ、姉弟で徳川秀忠の娘千姫に仕えた[1]。
経歴
染木家が『寛政重修諸家譜』の編纂時に江戸幕府に提出した先祖書上によると、正確な生年は不明であるが、公称の享年から逆算すると万暦18年(1590年)頃の生まれ。ごく幼い頃に文禄の役(天正20年(1592年) - 文禄2年(1593年))に巻き込まれ、2歳上の姉とともに日本に連れてこられた[2][3]。
家伝によれば、姓は李氏で、父はある城の城主であったが、父の城が日本軍に攻め落とされ、幼い姉弟は乳母に抱かれて落ち延びようとしたところを片桐且元の手の者に生捕りにされた。豊臣秀吉は長束正家に姉弟を預け、正家の居城がある近江国水口で育った[2][3]というが、『寛政重修諸家譜』は以上の話を載せない[1]。
慶長3年(1598年)、姉が11歳、弟が9歳のときに秀吉の子秀頼の婚約者となった徳川家康の孫娘千姫の慰めのため、片桐且元によって姉弟は中国の童子衣装を着せられて台に乗せて献上された[1][2][3]。のちに姉は早尾と名乗って千姫の年寄となり、弟は染木という名の千姫年寄の養子となって[4]千姫に広敷として仕え、染木の名字を与えられて染木八右衛門正信と称し、35石5人扶持の知行を与えられた[2][3]。
慶長8年(1603年)、千姫の秀頼への入輿により大坂城に随従し、元和元年(1615年)、大坂夏の陣で大坂城が落城して千姫が江戸に戻るのにも従った[2][3]。元和2年(1616年)、千姫の本多忠刻への再嫁により本多家の桑名藩(のち姫路藩)に付属される[5]。
寛永3年(1626年)、忠刻に先立たれた千姫(天樹院)が江戸に帰った後も、天樹院が寛文6年(1666年)に没するまで土圭間取次役として仕えた[1]。この間に姉の早尾は慶安元年(1648年)に61歳で病死している。正信は天樹院より3年長生きし、寛文9年(1669年)に80歳で病死した[2][3]。
子孫
嫡男として利右衛門正美がおり、寛永20年(1643年)に父正信と同じ土圭間取次役として天樹院に召し出されて仕えた。寛文6年(1666年)に天樹院が没すると将軍徳川家綱に仕える御家人となり、広敷添番に任じられた。元禄3年(1690年)に病気のため辞職して小普請に入り、間もなく病死した[2][3]。
正美には男子がなく、妻の親族である右兵衛昌常が婿養子に入って表火之番、広敷添番を歴任した。延享4年(1747年)に昌常の養子として後を継いだ右兵衛美啓は昌常夫妻と血縁関係になく、正信の直系子孫は途絶えた[2][3]。国立公文書館所蔵の江戸城多聞櫓文書に含まれる明細短冊により、染木家は35石5人扶持の幕臣として幕末の慶応年間まで続いていたことが確認できる[6][7]。
後世への影響
千姫の家臣だった染木姉弟と御目見以下の御家人だった染木家の事績は『徳川実紀』にほぼ記載がなく、経歴に関する情報は染木家が幕府に提出した先祖書上[2]とそれに基づく『寛政重修諸家譜』[1]による。これは江戸時代後期の随筆家にとって興味をひかれる奇談であり、大田南畝は『一話一言』に先祖書上の内容を要約して書き留め[8]、松浦静山は『甲子夜話』に先祖書上の写の全文を載せた[3]。屋代弘賢は染木正信のことを染木家当主と同僚の御家人から聞いて、文政8年(1825年)3月の兎園会で披露したことが『兎園小説』『弘賢随筆』に記録されており[4][9]、兎園会の参加者大郷信斎の『道聴塗説』にも同じ記事がある[10]。
明治以降は活字化された『兎園小説』や『道聴塗説』により染木姉弟の存在が知られた[11][12]。昭和14年(1939年)に雄山閣が刊行した『美談日本史』という本には、朝鮮役における日本人の朝鮮人捕虜に対する待遇が懇切で仁愛に富んでいた証拠として、「日本に伴われてきて、一生を安らかに終わった」朝鮮人の一例である染木姉弟が紹介されている[13]。戦後には、作家長谷川伸が『日本捕虜志』において染木姉弟を片桐且元が戦場で保護した戦災孤児と解釈した[14]。
参考文献
- 『寛政重修諸家譜』 巻1507。
- 『日本人名大事典』 第3巻 (サ~タオ)、平凡社、1979年、598頁。
- 阿部猛、西村圭子 編『戦国人名事典』新人物往来社、1990年、461頁。
- 大石学「近世日本社会の朝鮮人」『日本歴史』第655号、2002年12月、92-95頁。
- 大石学「近世日本における朝鮮人」『日本歴史』第688号、2005年9月、72-77頁。
- 添田仁「壬辰・丁酉倭乱における朝鮮人被虜の末裔 : 乃木希典の由緒」『海港都市研究』創刊、2006年3月、101-114頁。
- 荒木和憲 (2023年3月). “「文禄・慶長の役」時の朝鮮被虜人に関する研究史”. researchmap. 2025年10月21日閲覧。(한일문화교류기금 (2023). 韓半島의 日本人, 日本列島의 韓國人. 경인한일관계 연구총서. 경인문화사. ISBN 9788949966977)
脚注
- ^ a b c d e 『寛政重脩諸家譜』 第8輯、國民圖書、1923年、1002-1003頁。
- ^ a b c d e f g h i 『諸家系譜』 添田・祖父江・袖園・薗部・染木・薗田・反町。(国立公文書館デジタルアーカイブ)(43-53コマ)
- ^ a b c d e f g h i 松浦静山『甲子夜話 未刊』 第2、有光書房、1969年、530-533頁。
- ^ a b 日本随筆大成編輯部 編『日本随筆大成』 第2期 第1巻、日本随筆大成刊行会、1928年、71頁。
- ^ 『徳川実紀』 第壹編、経済雑誌社、1904年、840頁。
- ^ 熊井保、大賀妙子 編『江戸幕臣人名事典』 第2巻、新人物往来社、1989年、305頁。
- ^ 『小普請染木善一郎 明細短冊』。(国立公文書館デジタルアーカイブ)
- ^ 大田南畝「増訂一話一言48巻」『蜀山人全集』 巻4、吉川弘文館、1907年、745頁。
- ^ 『弘賢随筆』。(国立公文書館デジタルアーカイブ)
- ^ 国書刊行会 編『鼠璞十種』 第二、国書刊行会、1916年、73頁。
- ^ 大日本人名辞書刊行会 編『大日本人名辞書』 上卷、大日本人名辞書刊行会、1926年、1448頁。
- ^ 辻善之助 編『日本人の博愛』金港堂書籍、1932年、103頁。
- ^ 雄山閣 編『美談日本史』 第12卷、雄山閣、1939年、23頁。
- ^ 長谷川伸『日本捕虜志』新小説社、1955年、47-48頁。
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