東急対西武
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 07:54 UTC 版)
箱根山戦争、伊豆戦争、東京城西地区、渋谷など何かと張り合った東急・西武両陣営だが、ここ軽井沢 - 草津間でも両者の競争が繰り広げられていた。元来軽井沢開発は西武が先行していて、1945年東急が草軽電鉄を傘下に納めたとき既に西武は鬼押ハイウェーを系列会社の手で敷設したうえで軽井沢高原バスを運行し、地域交通を手中に収めていたほか、軽井沢の別荘開発を早くから手がけるなど、軽井沢周辺では西武系の勢力が強まっていった。 しかし、草津温泉においては、西武系は路線バスが乗り入れるのみで自系列の宿泊施設等はなかった(西武系は万座温泉方面から志賀高原方面に力を入れて開発することとなる)。後に東急系列が「草津温泉ホテル東急」を開業させたことを考えると、草津温泉では東急にやや軍配が上がったとも言える。草津温泉ホテルリゾート前の駐車場に隣接して小さな公園があり、公園内には草軽電鉄の草津温泉駅跡の小さな記念碑が建てられている。 モータリーゼーションが進みスピード重視へと世の中が傾斜してゆく中、少ない本数で時間をかけてゆっくり走る小さな電車の草軽電鉄よりも、増発が可能でスピーディーに走り、収容能力に勝る西武バスへ客が流れて行くのはむしろ当然であった。しかし、その頃は草軽も沿線を中心に乗合自動車の営業を開始していた。バスの大型化なども進み、奇しくも草軽電鉄を挟む格好で東急系列の草軽と西武は対峙したのである。 競争に敗れた東急側が不採算の高原電車を廃止し、草軽交通バスで挽回を図ったのもやむを得ない選択であった。
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