月ヶ瀬の烏梅製造の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/11 07:16 UTC 版)
元弘の乱(1331年)の際、笠置から後醍醐天皇が落ち延び、女官の一部が奈良県月ヶ瀬方面にも逃げたという。その1人園生姫(そのうひめ・姫若:ひめわか又は姫宮:ひめみや)[疑問点 – ノート]が滞留し、世話になった礼として烏梅の製法を教えたという。また、加賀藩主 前田利家(1538~1599)が浪々の折り、この地を訪れて、天神神社(月ヶ瀬)境内に多くの梅の実が落ちている様を見て烏梅を作り、京都に送ったのが始まりとも言う。(烏梅製造 記録作成(1)より抜粋[要文献特定詳細情報]) 京都の染物屋に卸された烏梅は同重量の米よりも高価に取引され、田畑の少ない山間地において重要な収入源となった。その為、急峻な山の斜面すら切り開いて梅の木を植え、月ヶ瀬の渓谷を数万本の梅樹で埋め尽くしたという。これが月ヶ瀬梅渓の始まった原因である。 収入源となっていた烏梅生産は、明治以降、安価な化学染料が輸入されるに及び、需要は激減して急速に衰退していった。作物の転換を余儀なくされ、梅の木を切り、桑や茶を植えるようになると、烏梅製造はほとんど絶えていった。 第二次世界大戦前には、それでも数件あった烏梅製造も、戦後は1軒のみとなって現在に至る。 現存する烏梅製造は日本唯一、奈良県奈良市月ヶ瀬でのみ確認されている。月ヶ瀬の烏梅製造は700年以上の歴史があり、現在は国選定文化財保存技術者(いわゆる人間国宝[要出典])として、中西喜祥は「烏梅製造」としては初めて(1995年5月)認定された。子の中西喜久も文部科学省から2011年7月15日に認定を受けた。
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