書名と想定される執筆時期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/15 02:39 UTC 版)
「為兼卿和歌抄」の記事における「書名と想定される執筆時期」の解説
為兼卿和歌抄の本来の書名は不明であり、現在の書名は後世名づけられたものであると考えられている。執筆時期、事情等を記した奥書などは無いが、その内容から京極為兼の著作であることが確実視されている。 為兼卿和歌抄の執筆時期は、本文中にある「実任侍従」という表記から類推可能である。実任侍従とは三条実任のことであり、三条実任は元の名が三条実名であり、弘安8年8月27日(1285年9月27日)には三条実名であったことが確認されている。一方三条実任が侍従を勤めていたのは建治3年7月25日(1277年8月25日)から弘安10年12月30日(1288年2月3日)までであり、このことから実任侍従という表記がなされている為兼卿和歌抄は、弘安8年8月28日から弘安10年12月30日までの間に執筆されたものであることがわかる。更に三条実任は弘安10年1月7日(1287年2月20日)に従四位下に叙せられており、それ以降は「実任朝臣」との表記がなされるため、執筆時期は更に狭められ、弘安8年8月28日から弘安10年1月7日までの間であると判断できる。 ただ、執筆時期については異説があった。それは文章構成が論旨が明確であるなど良くまとまっていることから、京極為兼三十代前半の著作ではなくて様々な経験を積んだもっと後のものではないかという点と、文章の前半が候文体で後半になると侍り文体なっており、文体が途中から変わっていることから、時間的に二段階に分けて著述されたのではないかという点の二点から、通説となっている弘安8年から10年にかけてよりも後に執筆されたのではとの説や、若い頃の著作を後年になって推敲し直したのではないかとの説も出された。しかし文章が良くまとまっているというのはあくまで主観にすぎず、別の論者からは若々しい力強い内容と評されることもある。また文体的に見て二段階に分けて執筆されたとしても、これだけでは通説より後に執筆したことの証拠とはなり得ない。また後に推敲し直したのではないかとの説も、為兼卿和歌抄の論旨自体が京極為兼30代前半の著作として矛盾がなく、文体が整っていないのはむしろ「自分の心を自分の言葉で詠いたい」とのやむにやまれぬ衝動に突き動かされるまま、勢いに任せ執筆したことの反映と見るべきとの説が有力であり、やはり弘安8年から10年にかけて執筆されたものであるとの通説が広く支持されている。
※この「書名と想定される執筆時期」の解説は、「為兼卿和歌抄」の解説の一部です。
「書名と想定される執筆時期」を含む「為兼卿和歌抄」の記事については、「為兼卿和歌抄」の概要を参照ください。
- 書名と想定される執筆時期のページへのリンク