日本製ゲームのライセンスとヒット
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/09 20:32 UTC 版)
「ミッドウェイゲームズ」の記事における「日本製ゲームのライセンスとヒット」の解説
※この節では個別のゲームに関する記述が多くなってくるが、各ゲームについての詳細は(ミッドウェイが関係する事柄であっても)、ゲーム名からのリンク先も参照の事。 そしてやはりタイトーで1978年に作られた『スペースインベーダー』は、日本のタイトー20万台・ライセンス10万台(コピーゲームは30万台)までは行かないものの、アメリカでも5万台を売るヒット作となった(ただしすぐ後にアタリが作った『アステロイド』の6万台に抜かれている)。しかしタイトーはこのインベーダーのヒットにより、自社系列のタイトーアメリカを通じて販売する様になってしまった。 そしてこの時、これまで初代アタリジャパンを通じてナムコと関係が深かったアタリは、Atari 2600の発売当初の不振、買収したワーナー(後のワーナーメディア)との関係悪化、これらを原因とする創業者ノーラン・ブッシュネルの解任などで揺れており、ナムコとの協調路線をとる余裕が無くなっていた。 ミッドウェイと日本のゲーム会社とのライセンスはこれを期に、これまでのタイトー中心から一時期ナムコ中心に移り、ポストインベーダーゲームとしてこれまた大ヒットした、ナムコの『ギャラクシアン』をライセンスする。 次のナムコからのライセンスでは『ラリーX』がヒットすると思われていたが、それより同時にライセンスした『パックマン』が、日本よりアメリカでヒットしたどころか、アメリカの歴史に残る大ヒットとなった。これによりパックマンシリーズは、日本で発売されずアメリカだけで発売された作品も存在し、当時ミッドウェイの副社長だったデビッド・マロフスキーは「ミッドウェイは20世紀のミッキーマウスを保有している」と語ったほどである。 アタリはアーケード作品こそヒット作は連発していたが、前述の騒動が完治しない内にアタリショックが発生して、経営も収入も傾いてしまった。その一方で、組織も資金力も安定していたミッドウェイは破竹の進撃で、バリー=ミッドウェイグループの中で筆頭の稼ぎ頭となり、当時テレビゲームが『ディフェンダー』ぐらいしか大ヒットを出せず、ピンボールも不調だったウィリアムスを買収する話さえ出ていた。なお当時はナムコの全ゲームがミッドウェイに行ったのでなく、『ゼビウス』『ポールポジション』などはアタリライセンスである。 その後しアタリはアタリショックの影響でアーケード部門と家庭用ゲーム機部門を分離、アーケード部門がアタリゲームズとなってからは、再度ナムコとの関係が強化され、アタリのゲームはまたナムコ中心にライセンスされる事になった。ナムコ・ミッドウェイ関係強化時代の最後のライセンス生産は『ギャラガ3』(『ギャプラス』の海外版タイトル)である。
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