日本と朝鮮の開国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 23:08 UTC 版)
日本は江戸時代末期に欧米諸国に対して開港した。王政復古により成立した明治政府は近代化を目指し、李朝では国王高宗の父である興宣大院君のもとで鎖国体制が維持されていた。李朝は、欧米からの開港要求に対しては、清が宗属国であるとして独自の外交は行わず、武力行使も辞さなかった。李朝の宗主国である清や、南下政策を続けるロシア帝国に対する政策の一環として、日本は朝鮮半島に注目する。明治政府はまず王政復古を李朝に伝えるために、李朝の東萊府に国書(書契)を送るが、李朝は華夷秩序の観点から受理を拒否した。文書の中に「皇」「勅」などの文字があり、これらは天子である清の皇帝だけが使える文字であり、対等である日本が使うなら交隣はできないという理由だった。閔氏政権となっても交渉は進展せず、日本は武力によって江華島事件を起こして日朝修好条規を結んだ。明治政府はそれまでの対馬藩による交渉を曖昧私交として廃止して、明治時代以降の交渉は対立が先鋭化した。日朝修好条規について、日本側は独立国同士の外交と解釈していたが、李朝側では日本との交隣関係の復活であり、宗属関係には清があるという解釈をした。
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